鹿教湯での二夏


高橋小一郎


一夏目(55年)

病癒え 一人信濃へ 立ち葵

7月23日

  その朝、三条駅のホームは葵の花盛りであった。リュックを背負った一人旅で、鹿教湯病院へ。夏休みを利用してのリハビリと体力作り、保養と山歩きという欲張った目的である。
鹿教湯は、脳卒中に効く温泉として名高く、リハビリ病院が、松本と上田の中央、美が原高原の北西山麓の静かな山峡にある。ベッド数約500の施設の整った立派な病院である。

蝉時雨 病院暮らし 慣れにけり

 単調で規則的な病院生活に慣れるのは早い。10日もすれば要領ものみこめ、ゆとりもできる。院内は勿論、外の温泉町の様子も判ってきたので、朝夕の散歩はいろいろとコースを変えて歩き廻るのが楽しい日課となった。

朝曇り 鯉釣る池の草の露

 用意していった使い慣れた愛用の竿で、釣り池の野性味のある尺余の鯉と引張りごっこするのが最大の楽しみとなった。
 リハビリ訓練の空いた時間をみつけて、朝食(8時)前、日中、または夕食(5時)後のときもあるが、よく通った。
 アギ無しの鮎掛け鈎だから、軟らかい練餌は落ちやすい。鯉もスレているので、鈎をさけて上手に餌をとる。池が浅いので、3号糸の先に1号のハリスを長目に結び、錘りも浮きもないもっとも単純な仕掛けで、鯉をだまして釣る訳だが、1匹目は割合簡単に釣れても、次からは警戒されるので、本当に鯉と人間とのだまし競べとなる。小便をしている僅かなスキに、竿ごと岩のトンネルの穴に逃げこまれたりする。餌を小さなダンゴにして鈎先につけたり、細い鈎に細い糸を結ぶハリスの補充は、指先の訓練にもなり、かかった鯉を引き寄せ網にすくうには左手も使わねばならず、足も踏ん張るしで、楽しみながらのよい手足の訓練ともなり、料金も3時間500円は手頃である。夢中になって時間を忘れ、夕食に遅れて食堂の飯にありつけず、止むなく町の食堂で一杯つきの夕食となったこともあった。釣り池の老夫婦と顔なじみになり、茶の間で話しこんで帰るときもあった。一度も釣られたことがないという池の主の一番大きな色鯉をあげた時は、じいさんはすっかり感服したようだった。

片まひの 手足ふんばり 鯉あげぬ
ヤナギラン 高原の夏 彩りぬ
美の塔は はるかに 夏の霧

8月10日

 隣室のK氏も連れて美が原へ。鹿教湯温泉経由のバス路線があり、家を発つ前に周遊券に組んでおいた。
冷夏のぐずついた天気続きで、霧の晴れた日がないと運転手の言っていた通り、期待のアルプスは見えず残念だった。
霧の晴れ間に全容を現した広大な高原の広がりには眼を見張った。
立山の弥陀ケ原は広いが、こうも平らではない。苗場山頂や飯豊御西の草原は平らであるが、かくも広大な広がりはない。

上眼して 牛塩なめる 牧の夏

 広大な草原牧場の柵の中を人間が歩くといった格好で、ここでは人間より牛が優遇されている。
 退院時、迎えに来た妻と息子を案内して、8月24日に再度訪れた時は、高原は秋の気配で、ヤナギランも松虫草も盛りを過ぎようとしていた。
 来夏は体力をつけて、霧ヶ峰へと扉峠越えで歩いて見たいし、雨で断念した燕山頂へも妻を立たせてやりたいものだ。

踊る輪に 医師の姿も 見つけたり

 鹿教湯病院は丸子町に属し、町の盆踊りが盆の14・15日に観光協会主催で、温泉街の目抜き通りで盛大に催された。その前景気づけに、病院主催の仮装大会が12日夜病院前広場で、町中の人や温泉客もつめかけて盛大に行われた。半月も前から患者と職員が協力して準備した。東・西の各病棟の各階毎に工夫をこらした仮装コンクールがメイーン行事で、わが西5階は鹿教湯サミットと銘打って、主治医の周恩来、ナースのガンジー、患者達の鈴木首相、飛鳥田委員長、水戸老公と助・格さん、サザエさん、京塚昌子、八代英太、スーパーマン、職員のサッチャー夫人、カーター夫妻等、世界中、日本中の各界名士がここ鹿教湯で会談という訳で、大騒ぎで、朝から仮装準備。プラカード持ちをやる小生も役者の顔触れが揃ったところで、一度行列の歩く予行練習。何しろ患者の状態が一人一人皆違う。車倚子あり、杖にすがる人あり、腰曲がりあり、これに元気盛んな若い職員も混じる。このメンバーで揃って歩こうというのだから大変なことである。
 かくして、本番はどうやらうまく出来、見物衆のヤンヤの喝采を博し、2等に貰った賞状は「ビックッリしたことでショウ」
 この夜の盆踊りの楽しさに味をしめ、町の盆踊りに出かけ、二夜とも9時の門限にやっと滑りこみ。

五台橋 涼しく渡り 文殊堂
涼風の 五台渡れば 薬師堂

8月20日

 鹿教湯には21カ所の名所が内村川沿いに散在し、これを全部巡れば8qになるという。そして各所にはスタンプがあって、巡った証しとする。これを観光協会に持参すれば記念品が貰えるというので、退院間近の3日間で巡って、記念の立派な絵葉書と表彰状を貰った。この表彰状の文句がいい。「・・・を3日間で踏破されました。これはあなたの健康づくりへの努力と若さと健脚を象徴するものです」とあった。

百日紅 盛りは見れず 退院日

8月23日

 

二夏目(56年)

仕事にも 人にも倦みし 大暑かな
越の出穂 信濃は 青きリンゴかな

8月27日

 学期末に、心晴れぬ事柄が重なり続き、更に暑さも加わって、逃げるような気持ちで鹿教湯へ来た。体力、気力を恢復し、暑さを乗り切り、来年への充電をしなければならない。
早速、釣り池に挨拶に。あの主の色鯉はいないがひとまわり太った鯉が泳ぎ廻っている。初日の今日は小手調べに3匹あげる。やはり1号ハリスでは切られる。鈎もヘラ用8号と強いものにしたのだからハリスも1.5と強くしよう。
さて本番で、練餌が切れて、試しに赤トンボをつけ、水面に浮かしたら、風に流されているところを太い奴がガボリ。エンマコオロギを沈めてやれば呑み込んでくる。鉄砲ジミなら最高の餌。釣り座もどちらへ走っても対応できるように、池辺の中頃に陣取ってと2年目ともなれば、要領もよい。二度も釣られた奴もいる。一度も釣られずに餌だけ失敬した奴は何匹位残ったことか。終わり頃には1.5号も切れ2号にしたがやはり走られるとハリスを切られる。中間(8/10)に帰宅した際に補充した鈎もなくなり、竿先も痛んだので、これ以上鯉を痛めつけるのは止めようと、本業たる訓練に精を出した。
昨夏は中房まで行って晴天を待ちつつ、遂に天気思わしからず断念した燕岳へ、都合で出てこれない妻や息子をあてにしないで、一人で登ってやろうと、退院十日頃から、毎朝1時間病院の裏山へ登り、歩きこんで足も鍛えたが、あの迷走台風15号のために、日程が取れなくなり断念せざるを得なかった。

病室で 絵を描く人の 夏座布団

  病室は4人定員の和室で、定員どおり4人が暮らしている。
 Y氏は70近い温厚な話し好きの旦那さんで、日本画をよくする。若い頃はこの道で食ってゆこうと家出した位の腕の持ち主。号は本名そのままを。この方が入院したその日の夜中2時、発作というか、ヒキツケを起こし、手足はケイレンし、口も利けず眼も開いたまま。当直のナースは再発と思いこんだらしく、慌てて当直医に電話。駆けつけた若い医師の卵は、テンカンの発作と診たのか、前にもこんなことがあったのかと聞くが、ご本人は口が利けず僅かに首を振って否定の意を伝えるのがやっと。応援のナースと3人で、ベッド車に乗せられて3階の処置室へ運ばれた。再発でこのまま逝かれるのではなどと心配しながら、まんじりともせず白む朝を迎えたが、一過性のものか昼には平常に復し、室に戻られた。ご本人の話でもこんなことは初めてで、意識がありながら口を利けないもどかしさ、このまま逝ってはと本気で思われた由。入院時に薬が変わった故としか思われないが、未だに納得のいく説明は医師からもなく、ただ二度三度とあることではないと言われているので、気にしないことにしてはいるがとのこと。そんなことで、大変にお世話になりましたのでと絵を1枚記念に画いて下さった。病院にも慣れた日曜日の早朝から、朝日の射し込む室で絵筆を持たれて、鶏年なのでと言いながら、見ている前で画かれたものがこの絵である。「鶏と少女」と題して、尾長鶏を抱く可愛らしさ一杯で、淡い色だけを使った絵である。飯田市の街中の古い商家で、洋傘を商うが、店は奥さんがどうやらで、息子さんは勤め人とのことである。絵の弟子は入院中はしかるべき知人に替わって見て貰っているとのことなど話して下さった。
 O氏、60才、名古屋の消火器商のご主人。右マヒで、発病時記憶を失い、今も言語失調で、計算や読み書き不得手。新聞を読むよう奨めるが、よく読めないという人だが、明るい人柄で親しみ易く、右手で鋏がよく使えないが、釣り道具の安鋏がピッタリだというので、それなら使ってくれとやったら、退院記念にと、作業療法時に急いで作ったキーホルダーを下さった。
 H氏、室での最年長(70+α)で、栃木は桐生の老人。変わったお人で女好き、自然われ等3人とは別行動で女人と行動したりの方が多い。3人はよく朝夕散歩を共にし、店を持ち、年も近く、生活圏も近いという共感が多い故か、Y、O氏はよく話が合い、Y氏の若い頃の話は面白くて、夕涼みの談笑のひとときを楽しいものにしてくれた。Y氏の絵は帰宅したら、早速妻が「ハイセイコー」のパネルを外して代わりに父の丸額に入れて掛けたら、見応えがあり、部屋にマッチするものでもあり、O氏のキーホルダーは息子が喜んで貰い受けた。

踊る輪の 先頭に立つ 掃除婦さん

8月10日

 3年目という病院恒例の納涼大会は、帰宅が直前にあったので、今回は盆踊り役のみ引き受けていたのだが、帰院したら、今夕の仮装コンクールの審査員をやってくれと、担当ナースから頼まれてしまった。
その日、夕食後5時半から始まった盆踊りを賑やかな前座に、やがてメーン行事の仮装コンクールの始まり。全部で12のグループが順にアイデアを凝らした仮装を披露すべく、病院前広場の特設会場を四角にねり歩く。
わが西5グループは、この病気にとっては悪者にあたる、煙草、酒、怠け心という3悪を黄門様がこらしめるという設定で、ハイライトの大箱を着て、酒ビンをぶらさげた悪者共を黄門様一行がこらしめるという行列で、見事これは小生の審査通りの「ハッスル賞」に輝いた。

土地っ娘のナースに 真似て踊る輪に

8月15・16日

 待望の町の盆踊りは14日は雨でお流れ。15・16両日は昨年以上の踊り手で賑わった。
土地っ娘I孃のよくしなう細腰の後について踊れば、間違えることなく踊り易い。7時から9時までの2時間を休みなく踊っても短く思われた。16日は最後の踊りとて、天龍寺境内広場で、土地の青年会の仮装踊りも加わって、三重に輪が拡がり、茶碗酒に景気づいて、夏の想い出とばかり一汗も二汗もかいて踊りに興じた。丸子音頭と鹿教湯小唄は難しいが、炭坑節と東京音頭は2年目なので存分に踊れた。床に付いてからも太鼓の音が耳の中で響いていた。

貸馬車 疲れし高原 夏果てぬ
湿原を渡る秋風 霧が峰

8月24日

 迷走台風15号の接近がぐずつき、退院間際になって燕登山を霧が峰に変更し、一番バスで鹿教湯を発った。バス停で待っていたらH老が来て、別れの煙草をくださった。タッチの差で急行に乗りつけず、ままよ急ぐでもない一人旅と、駅前でゆっくりした朝食時、テレビで札幌の洪水と須坂の鉄砲水を写していた。小諸では雲で浅間は見えなかったが、朝の涼しい空気の中を、駅前始発バスは、蓼科牧場乗り替えで霧が峰へ。長野県が観光のドル箱として開発したビーナスラインは有料道路で、霧が峰から美ケ原へと1500mの高原を縫って続く。霧が峰バスインターからたっぷり1時間かけて八ツ島湿原への道を歩く。湿原は保護されてはいたが、八ツ島インター附近の人出はすごいものである。この湿原もやがてかく押し寄せる車と人波で、自然のままでは在り得ないのではないかと心配させられた。現に湿原入り口の車道に近い所では、オオバコがはびこっているではないか。大勢の人がこの景観に接することが出来るではないかという安直なメリットの為に、何千年という年月をかけて出来たこの美しい姿のままで後生に残すべき自然が回復不能になるまで痛めつけられてよいものか。車道をこんな所に通すのはやはり心ない暴挙と言わねばならない。扉峠から美ケ原へと続く車道と遊歩道を確認した上で帰路につく。
小諸に戻って、懐古園を訪れたが、フラリ旅で宿の予約なしが気になり、折角の小諸城址も、火山博物館や、小山敬三美術館もゆっくり見れない中に5時過ぎの閉館となり、駅前ホテルを2つとも断られ、その2つ目のホテルが予約してくれた古城なる安ホテルの遊子なる部屋に落ち着いたのが6時過ぎ。遊子の空腹が千曲河岸台地の急坂で鳴るのをこらえて、駅前の焼鳥屋で先づはビールで空腹をだまし、程よい頃にコップ酒。受け皿付きの冷やで出すとは気に入った。

秋の夜の千曲の川音 コップ酒

 かくして、翌朝の急行料金にもことかく哀しさは、一汽車早い鈍行となり、好きでもないアンパン3個を中食に、ゆっくりと家路に向かうことになった。楽しくてやがて悲しい一人旅。

赤のまま 高原の駅 一人旅
涼風や 信濃の旅を 終えんとす

 来年もまた鹿教湯で人間を取り戻し、そして一人で小さな旅を楽しもう。

 「健康とは病気でないということではない。なに事に対しても、前向きの姿勢で取り組めるような精神的・肉体的そして社会的適応状態をいう」

――――――WHO(世界保健機構)の憲章――――――

 一度はこわれた体であるが、それなりに健康の維持増進に努力し、社会適応の枠を拡げて生きたいし、また旅に出て自然に接する機会も多く持ちたいと思っている。
 OB諸君の健康を祈念しつつ、記念誌に寄せる拙文とします。

56年8月末日

※昭和56年発行「ライダース・イン・ザ・スカイ」15周年記念号掲載


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