編集後記


 40周年を多忙に任せてネグっていた私は、平成19(2007)年夏に金子達先生が高橋小一郎先生宅を訪問された話をお聞きし、「お二人の回想を記録にとどめたい」と、遅ればせながら40周年記念誌の編集に着手することになりました。
 部も部員が途切れそうで、インターハイの連続出場記録も途切れてしまい、記録を整理する必要性もありました。
 当初、平成20年春に発行する目標でしたが、私の仕事が忙しく簡単に挫折。次に、インターハイ出場も無いことだし「夏休みに頑張って秋には発行を」と目ろんだのですが、夏に、本校野球部が悲願である甲子園初出場を目指して頑張ります。
 試合会場は今年度からネーミングライツでその名がついた「三條機械スタジアム」(三条市民球場)。同窓会事務局の私は、うれしい悲鳴を上げながら準決勝・決勝と全校応援体制に取り組みました。それこそ、これまでの歴史にもないことでした。そして三条地域悲願の甲子園へ。
 OB会の40周年記念誌の編集がまたしても吹っ飛んでしまいました。
 それでも「秋のOB会総会には」と思いながら、甲子園の事後処理をしていたところ、9月17日に私が緊急入院することになってしまいました。
 病院に資料を持ち込んで、容態が落ち着いているときにボチボチと編集をすすめてきました。
 そんなことで、編集といっても一貫した考えが無く、原稿を並べ立てたという内容です。お許しください。
 資料をまとめながら、40年間の時の長さを実感し、人と人のつながりが三工山岳部・県央工山岳部を支えてきたことを改めて実感しました。
 この間、インターハイで入賞もし、全国的にも名を売りましたが、何よりの「財産」は、それに関わり、支え、受け継いできた部員と顧問という人間的なつながりです。
 こんな経過を持った40周年記念誌ですが、一番の心残りは、今泉源太郎先生の原稿をいただきながら発行前に亡くなられてしまったことです。
こうして編集後記を書くことができて、ホッとしながら寂しさも感じています。
 これから私が受ける「骨髄移植」は厳しい治療ではありますが、息子がドナーに決まり、家族の協力のもと、患者としてはずいぶんと恵まれているようです。皆さんと大酒を飲める日を楽しみにしながら闘病に全力をあげたいと思います。
 発行にあたっては、至らない私を心配していただいた高橋小一郎先生に事後処理をお願いしました。校内的には同窓会職員の斎田ミツ子さんに入力作業をご協力いただきました。そして全ての尻拭いを荒木孔版さんに押し付けさせていただきました。
 皆さんのご協力に感謝申し上げます。

平成21(2009)年1月10日 自宅にて

吉田光二 記


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