部創設の頃


斎藤 勲


 山岳部は、昭和38年4月に他のいくつかの部とともに発足した。発足当時は、確か10名位の部員がいたと思う。それも、あまり山登りなんかには、縁のなかった連中ばかりだった。その後、部員は次第に減ってゆき、夏山合宿前には、金子、三村、小柳、阿部、それに僕の5名になってしまった。
 10月まで、実高に間借り生活をしていた関係で、トレーニング山行等の一切は、実高山岳部から指導してもらった。僕達は新しい部を作るということに夢中だったのだ。
 初めての山行は、粟ヶ岳日帰りだった。残雪の山の素晴らしさが僕の心をとらえた。その後、粟と守門へ幕営山行もしたが、6月に予算が配分されるまで、装備は全部、実高山岳部と秀峰山岳会からの借りものだった。この当時の周囲の人達の暖かい援助や助言は、何も持たず、何も知らない僕達には非常にありがたかった。そして8月には、どうやら夏山合宿(2泊3日)を苗場山で行うことができた。いま考えてみると、なにしろ初めてなので無理もないが、ずいぶんとのんびりした合宿であった。
 10月に新校舎へ移転すると、先輩のいない僕達は、なにもかも自分たちの手でやらなければならなかった。しかし、トレーニングだけは休まず続けた。この1年間の部としての山行は6回。あの頃の僕達では、これが精一杯のものだった。
 ともかく、この1年間は夢中でやってきた。実高山岳部からも指導を受けたが、10月からほとんど自分達の手でやってきた。それでもはたから見れば、ずいぶんいい加減のことや、独り善がりのでたらめがあったかも知れない。高橋先生にも、「お前達は苦労を知らないアンニャッコだ」とよく言われた。しかし僕達はそれなりに一生懸命にやったつもりである。いまでも、あの頃の僕達は、本当に純粋な気持ちで、山に接してきたと思っている。
 以上、創設されてから1年間のあらましを記したが、その後は実高から今泉、高橋先生とベテランの顧問をむかえて、着々と充実してゆき、僕達の卒業年度には、念願の飯豊に合宿を行い、思ってもみなかったインターハイと国体に、金子と僕がそれぞれ出場した。3年間でこれまでになったのは、未経験は未経験なりに真剣に山に取り組んできたことと、僕達の固いチームワークのためだと思う。
 山岳部活動は、高校生活の素晴らしいケルンだった。「垂直の散歩」に夢中になっているこのごろだが、ときどき、あの一本気だったカケダシ時代を懐かしく思い出している。

※ 本稿は「部報・創刊号」(昭和43年発行)より転載しました


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