ライダース・イン・ザ・スカイ bP


三工山岳部OB会

〈今回の内容〉
・OB交歓登山の報告      K2
・寄稿 槇有恒さんのこと    金子 達

・OB交歓登山の報告

K2

 10月21日夜、六日町駅で県内のOBと東京方面からのOBとが合流。山荘でOB12名に高橋先生を交え懇親会が盛大におこなわれました。
 懇親会はなんだかんだと話がはずみ、就寝は空が白みがかった午前4時。高橋先生他2・3名は強い風の吹く中フライを被って外でゴロネ。
翌(?)22日、起床6時。小屋の中のOBには寝ようとしたところへの起床だったらしく、ボヤクことしきり。
 天気は期待の雨。一足先に東京に帰る阿部氏を送るためアミダでその要員を決め、残りは沢に行く組とフトンの中の組とにわかれ、10時頃また山荘に集合。むかえ酒をちびちび飲みながら余った時間を楽しみましたが、その中で脚光をあびたのがH氏の吹き上げの滝での滝ツボ探険報告でした。(実は吹き上げの滝を滑落し滝ツボへという話。背が立たなかったそうで・・・)
 六日町に出てからメシを食べに食堂にはいり、寒い寒いと熱燗に手を出し、お別れパーティーを開き駅前で散会しました。熱燗の影響で散会の時刻は不明です。
 今回のOB会の中で、来年の0B会も巻機山でおこなうことを仮決定しました。
 来年もヨロシク。

・寄稿 槇有恒さんのこと

金子 達

 槇有恒という名は、山登りしようという人なら誰しらぬものはないでしょう。私は高校・大学の頃は山へ行ったことがありませんでしたので登山関係の書物を読んだことがありませんし、登山家と言えば槇有恒氏くらいしか知りませんでした。と言うのは、うろ覚えですが槇さんが一時長岡中学に在学していたことがあったのか、長岡高校の生徒手帳にその名が載っていたことと、槇さんが隊長をつとめたマナスル隊が登頂に成功したのが、高校在学中の昭和31年5月のことだったからです。(戦後日本登山史上の快挙として、新聞や映画で大きく報じられその映画も2・3回見たことがあります。)
 登山もスキーも教職についてから始めたもので、いろいろの人の書いたものを読んでみましたが、やはり私の頭の中には槇さんが大きな位置を占めていて、それはあたかもハイティーンの女の子が映画や歌謡曲のスターに熱をあげるように、槇さんというわが国近代登山の最高峰に傾倒していったのです。
 その槇さんに会えたのです。言葉も交わしたのですから私のミーチャンハーチャン的な槇ねつは高まるばかりなのです。
 昭和44年の文部省登山研修所(立山の裏にある)の夏山登山講習会に出るようにたのまれて、いやいや返事をした私も、送られて来た要項を見てがぜんその講習が楽しみになりました。特別講師として槇さんの名前があったからです。
 この時の山日記は引越の時、家がせまいので実家に荷物を送ったものの中に入っているので、これまたうろ覚えの印象になるが小柄で柔和な顔だちの槇さんからは、とてもこの人がアイガー東山稜の初登攀者には思えぬほどであった。
 座学が終わって実技訓練のため剣沢まで装備を背負って出かけたが、75歳になる槇さんも愛用の杖にすがりながらたいして疲れた様子もなく、少しおくれてやってこられた。
 別山の東斜面での岩登り練習の日は霧雨だったが、槇さんは雨に打たれながら我々の動きを下の方から見まもっていた。こんなあたりに槇さんの人柄と、日本の山岳界のレベルアップに対する情熱が感じられた。
 最後の晩は新装なった登山研修所の山小屋で全員が泊まることになったが、話に花が咲き場所が場所だけに感慨もあってか、槇さんが大正11年正月の立山の松尾峠でのスキー遭難事件とマナスル登山の思い出をおちついたすこししわがれた細い声で話しはじめた。最後は長い登山活動を通じて槇さんが到達した心境をしみじみと話された。それは新しい試みの開拓を続けて来た人の到達する宗教的な境地のようなものであった。ここに若い人はおおくの学ぶべきものがあった。
 窓の外には霧が流れていた。
 翌朝早く、どういう訳か私は目が早くさめてしまって、ごそごそ起きだしたらもう槇さんは洗顔してもどってこられて、「晴れて来ましたよ。剣がきれいです。」と話しかけて下さった。これまで霧にかくれて剣の全貌を見ることは出来なかったので、カメラを持って外へ出てみた。モルゲンロートの中で剣の黒々としてシルエットが浮かび上がっていた。
 帰りに室堂で槇さんと一緒に並んで写真を写してもらった。スターに会えたミーチャンハーチャンのように私は満足な山旅を終えた。

※1972年(S47)発行


   |   サイト内検索

Copyright© 新潟県央工業高校(旧・三条工業高校)山岳部OB会