顧みればクリスタル


大島千秋


 谷川岳のマチガ沢に入ったのは30数年ほど昔の秋だった。頂上の直下で、ふりむけば眼下の本谷は紅く色づいた草木と岩の白さの織りなすコントラストは錦絵のそれにもにた美しいもので、はずむ息、流れる汗もしばし忘れて、只、すがすがしい景色は眼をみはるばかりであった。この感激をふくむ沢登りが、私をすっかり山のとりこにしてしまうことになる。
 所属した秀峰山岳会は、つい最近創立40周年の記念パーティを催したばかりである。以来10数年間、ロッククライミングに魅せられていた。
ハーケン歌う一ノ倉を中心に、来る年も来る年も、若葉の香る6月の節句には会の主力はマチガ沢入口にベースキャンプをおき、くる日もくる日も、岩に挑んで頂上に向かったものだ。帰路は必らずといってよいほど西黒尾根を一気に走ってテント場へもどった。(この行為をある者は「手をかけないで殺す気」などという言葉が生まれた。それほどにはげしい下山方法であった。)
 冬ともなれば一転してスキークラブに変身し、スキー合宿に入る。冬鳥越えのスキー合宿、赤倉温泉の共同浴場に宿をとったり、今からは想像もつかないことである。また時には、大晦日から正月にかけて食糧を入れたリュックとスキーを背負って、上越国境のスキー場へ出かけたものだ。大晦日には駅員もサービスよく、親切に待合室で宿泊することも許可された。正月も3日目に入ると遂に追い出される羽目になって、湯檜曽の駅に向かったが駅では目的は果たせず、大穴スキー場近くの民宿に入る結果となった。
 春山スキーは苗場山が多かった。湯沢の駅を出るとまもなくスキーをつけて芝原峠に向かう。途中の登りでは、スリップしないためスキーに藁縄をまいて深い雪の中を歩いた。
 下りになると縄をとらなければ動けない。アザラシの皮をスキーにとりつけて、登りも下りも簡単になり、鉢巻を過ぎれば外の川にはたやすくでられた。
 苗場の小屋で軽装になり、一気に上の芝に登り、小屋をめざして森林の中を辿る山スキーはそれなりに楽しいものだった。ある年のこと、特に苗場小屋裏手の雪が軽いので夜おそくまで月あかりで練習した。雪はスキーをうめて股に達しているのに回転抵抗もなく、しかし転倒するとスッポリ雪の下になって空を見るのに苦労したものだ。この軽い粉雪は、あとにもさきにもおめにかかったことがない。
 お盆には谷川ではなく、上高地より涸沢にテントを張り、数日の間、ザイルで奥穂、北穂、滝谷に入り、山を岩を堪能したものだ。
 このような山行きに疑問をもつようになり、郷里の山を見直そうということで、特に粟ヶ岳周辺の沢に初登攀をこころみるようになった。地元の山へ沢へとしげく脚を運び、本当の山のよさを知った。「沢は道なり」とはこの時確認できた。
 さて、昭和38年より工業高校にお世話になり、山岳部の初代の顧問となり、部費で何を購入するかということになり、最初のことでもあり1年生のみで山岳用具もわからず顧問の考えで購入した。何を買ったかさだかではないが、岩山に夢中のこの時代の関係もあり、用具も次のようなものを求めてしまった。ザイル、ハーケン、ハンマー等、生徒の能力無視でこれは失敗であり、後輩の諸君もこれらの用具を使用したということを聞いていない。いつまでも部室に残ることであろう。

※昭和56年発行「ライダース・イン・ザ・スカイ」15周年記念号掲載

【大島先生は平成18年4月7日にご逝去されました。ご冥福をお祈りいたします】


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