ライダース・イン・ザ・スカイについて


金子 達


 大塚大という人を知っていますか。山岳写真家としてはかなり知られた人です。この人こそ、わが三工山岳部の部歌のようになっており、OB会の会報名にもなっている「ライダース・イン・ザ・スカイ」を伝えてくれた人なのです。このいきさつについては、昭和45年発行の「部報」第3号に書いたのですが、手にする機会もない諸君も多いと思うので、そのあらましを再録したいと思う。
 昭和38年8月中旬、私が当時勤めていた栃尾高校西谷分校の先輩の先生達と一緒に立山から剣をめざし、劔御前小屋に泊った。翌日は剣へ向かう予定であったが、雨がひどく、小屋の管理人の大塚さんはやめた方が良いというし、山の経験の少ない我々では、この雨をついて出かけることは出来なかった。
 部屋でゴロゴロしていると、小屋に残った人達も多いので歌の会を開くので来てくれというので出かけた。全部で50人位も集まって来た。そして大塚さんの指導で、最近関西の方の大学の人が来て教えてくれたという「ライダース・イン・ザ・スカイ」という歌をならった。
  昭和40年に三条工業に移って来た。最初の年は籠球部の顧問だったが、高橋先生から6月の山岳部の守門登山に参加しないかと誘われ、栃尾時代に何回か守門へ登ることを計画しながら、雨で駄目になっていたので、この誘いを喜んで受けました。
 栃堀からではなく、それより随分手前の泉から歩きはじめた。私は大きなザックを背負って長い距離を歩くのはこの時が初めてで、雨の中ようやく保久礼に着いた時は相当まいっていた。幕営・炊事といっても不慣れな私はただウロウロするばかりだった。3回生の渡辺や金子もまだ新人の頃で、「五郎」「金子」なんてリーダーの斎藤からいろいろと指示を受けていました。
 8時頃、私のいたウインパーテントに数人の生徒が遊びに来た。ここで私が2年前、劔御前小屋で、大塚さんから習った「ライダース・イン・ザ・スカイ」を山岳部の諸君に聞かせた。メロディーが簡単なせいか5・6度歌ったら、もう覚えてくれた。
 今泉先生からお借りしたエアーマットと寝袋で寝たのも初めてなら、翌日袴腰の頂上から見た雲海も初めてだったし、あばらせ尾根から吉ヶ平へ下る道がガケ崩れのため、ターザンもどきに草や木につかまりながら300m位も直下したのも初めての経験だった。とにかく私にとって強烈な印象を与えた山行だった。
  随分あとになって、「ライダース・イン・ザ・スカイ」の原曲をラジオで聴いたことがある。アメリカの西部のカウボーイソングらしい。テンポは随分早かった。この曲をかりて、山の歌に仕立てたとき、たき火を囲み、手拍子で歌えるようにテンポをゆっくりしたものに変えたものなのだろう。
 歌詞は山の歌にはよく出てくるものだ。山でよく歌われる「新人哀歌」にも

世にいうあの娘は お嬢様
俺らはしがない 山男
月を眺めて あきらめる
笑ってくれるな お月様

 と、似たようなフレーズがある。東条寿三郎作詞の「山男情歌」にも、

いわゆるあの娘は お嬢様
俺は文なし 旅の鳥
歩きつかれて あきらめた
笑ってくれるな お月様 お月様

 という一節がある。山の歌の常套句を借りて作られたのが「ライダース・イン・ザ・スカイ」なのだから、プロの作詞家の手になるものではなさそうだ。

 その後、劔御前小屋の前は2・3回通ったことはあるが、中へ入ってみたことはない。ヒゲづらの大塚さんはどこで何をしておられるのかな。「ライダース・イン・ザ・スカイ」を歌う時、いつも、雨の劔御前小屋と保久礼が思い出される。

※昭和56年発行「ライダース・イン・ザ・スカイ」15周年記念号掲載


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