母校の山岳部で


今井直樹

 平成17年4月から県央工業高校に勤務している。思えば三条工業高校を昭和56年3月(第16回)に卒業させてもらいましたが、在学中は運動部に所属することもなく、何かに打ち込むこともない生徒であったと思う。クラスにも、山岳部の生徒がいなかったようで、部活動もあまり伝わってこなかった。
 山岳部OB名簿を見ても、第16回卒の部員のところだけが、何故か在籍者がいなかったようだ。そんな特異な学年だったと思う。しかしながら、在学中、第1棟屋上から生徒玄関上まで懸垂下降で降りる練習を垣間見たときは、「カッコイー!」と思った。そのときの顧問の先生は化学工学科の増田繁雄先生と、おそらく機械科の大原栄一先生だったように思う。機械科だった私は大原栄一先生から1年生の実習でアルミニウムの鋳造を教えていただいた。また名誉会員であられる高橋小一郎先生からは、2年生で機械工作を教えていただき、授業中の雑談ではスキーの話を熱っぽく話しておられたことを覚えている。さらに今泉源太郎先生からは3年生のとき原動機を、小倉勝先生からは材料実験をそれぞれご指導いただいた。できの良くない生徒だっただけに先生方のご指導には心から感謝しております。
 さて、そんな私が山岳部顧問になったのは初任校新発田南高校でのことだ。部活動顧問を決めるとき、サッカー部・ラグビー部・陸上部・・・と山岳部の顧問の空きがあった。経験したことのないものばかりで、悩んだ末に第1希望を山岳部と書いた。理由はどの競技種目にも知識・経験もなく、唯一私の生まれ育った環境が「下田村の山奥で生活をしてきた。」とただそれだけで決めた。
 新発田南の活動はさほど盛んなものではなく、大会前にバタバタの間に合わせで、忘れ物や勉強不足で大変であった。しかし、大会会場で三条工業高校山岳部を見たとき、息のピッタリ合った動きにただただ感心し、母校の活躍を喜ぶ一方でどうしたらできるのかが不思議に思えた。でも、それを理解するのには時間を必要としなかった。そうです。吉田先生の存在です。
 私が工業高校を卒業した後、吉田先生は定時制から全日制に異動され山岳部の指導をし、これまでの大会成績の伝統を築きあげた。今私は、三条工業高校から県央工業高校に改まった母校に勤務することができ嬉しく思っている。
 山岳部の指導は吉田先生と宇佐美先生が計画的にされており、また前任校では山岳よりも卓球部顧問であったため赴任した年はお客様であった。ただ体力の衰えを少しでもカバーするため、生徒が体力トレーニングとしてやる校内60分走を生徒と一緒に走ってみようと思い、後ろについたのであったが、30分が限度でした。1階から3階までの上下運動がかなりきつい。しかしながら、体が反応してこの有酸素運動に対して気持ちよさも感じることができるようになっていった。
 赴任して3ヶ月が過ぎた6月24日・25日に、毎年実施している重荷合宿を1泊2日で粟ヶ岳で計画した。天候は梅雨時にもかかわらず雨の心配がなく安心である。CLの波塚を含め3年生3名・2年生5名・新1年生3名と顧問は宇佐美先生と私の13名のメンバーであった。金曜日授業を終えて即準備、16時、五百川に向けて車2台に分乗し出発した。駐車場に到着後、今晩の幕営地である粟薬師に向け出発したが、私は下田村が昨年整備した粟薬師から袴腰山までの「ぶなの道」をこの重荷合宿の下山で確認するため車を移動することとなった。ただ、袴腰山までは行程が長いため途中で分岐するルートを選択した。五百川集落奥に車を止め生徒と宇佐美先生を追いかけた。幕営地の粟薬師に到着したときには辺りは薄暗くなり、設営されたテントの外では1年生を2・3年生が指導しながら炊事訓練中で、私は宇佐美先生と共に避難小屋でゆっくりとしながら、翌日に備え21時に就寝した。
 2日目、5時起床、7時出発。生徒は2リットルのペットボトルをたくさん詰めたメインザックで、3年生は25sオーバー、1年生でも18s前後はある。私は形だけのメインであったが、1ピッチ休憩で汗が顔を流れ落ちるほどであった。校内60分走の効果で、何とか無事遅れることなく登ることができトレーニングの重要さを再確認した。生徒はメインザックを周りの登山者から注目され、自信の笑顔である。辛かった登りも終わり、下山用の水を残し山頂の木々に散水し、気を楽にしている様子である。40分程度の休憩の後、下山を開始し、順調に「ぶなの道」の粟薬師分岐を通過する。抜開されて間もない道は土嚢が積まれていたり、枝が切り落とされたりと新鮮味が感じられた。ただこの日は異常に気温が上昇し、フェーン現象となった。水場の案内があったが、沢は溜まり水である。飲める状態ではない。そのとき1年生の生徒が気分が悪いと行動が鈍くなってきた。宇佐美先生が木陰でしばらく休憩の指示を出し休ませることとした。この暑さでバテたのだろう。地形図には登山道の記載はなく、現地確認をするものの残りの行程がまだだいぶある。ペースは暑さに苦しめられて落とされ、不安は高まっていく。下りだからと甘く見たこともあり精神的にも苦しさを体験できた重荷合宿であった。
 以降、このルートを使うことはなくなった。私は、少しでも体力を維持するためにできるだけトレーニングにつき合っている。残念なことは一緒に走る生徒が1人だけになったことである。
 装備の負担を軽くするためにも、来年は新入部員の獲得に走りたい。


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