山岳部の思い出


吉田光二

三工山岳部との出会い

 三工山岳部との出会いは、昭和44年、2年生の時だった。中学のときからスキーにハマッていたことから山岳部に憧れてはいたものの、踏み切れず、誘われるままに柔道部に入部していた。ところが柔道部と山岳部の部室が供用で、結局、2年生になる時に山岳部入部に踏み切ることになった。
 入部に当たっては慢性の虫垂炎を手術して、自分なりに「満を持して」の決意だった。
 かくして、私の三工山岳部生活が始まった。
 そして、山岳部卒業後も、OBとして何回かの部の山行に同行していたが、昭和58年に本校に勤務することになった。

思い出の山行

 OB時代でいえば、なんといっても下田村奥笠堀・石小屋沢の合宿。まさに、自然に「同化」するごとく、火を焚き、木に登り、沢に飛び込み、勢い余って「高小リッジ」までアタックした。
そして、冬・春では粟ヶ岳合宿。凍てつく北峰の斜面を段切りにして「ホテル北峰」を設営。氷化した粟ヶ岳に遊んだ。
 夏山では、大日岳〜剣岳〜水平道での合宿。称名滝から大日岳、奥大日岳を越えて剣沢に入り、まずは別山尾根から剣岳アタック。翌日は長次郎谷から剣岳に再アタックして平蔵谷をグリセードで下山。雪渓に慣れたところで三ノ窓に登りジャンダルムへ。最終日は水平道をひたすら歩いて欅平で終点。剣の良さを堪能した合宿だった。
 いずれも高橋小一郎先生に連れて行ってもらったものだが、現在では高校山岳部として考えられない山行内容である。
 顧問になってから、夏は飯豊、朝日、北アルプスと合宿をまわしていたが、近年はもっぱら北アルプスに行くようになった。北アルプスはルートのとり方によっては安全性が高く思えるからである。
 平成7年7月の飯豊連峰での合宿は、そうしたことのきっかけになったように思える。
 7月22日、おなじみセントラル観光のチャーターバスで川入御沢キャンプ場へ。即刻登って高度を稼ぐ予定だったが豪雨のため停滞して1泊。翌日、登山を開始して切合小屋で2泊目。稜線は炎暑の中を飛ばして門内小屋で3泊目。異様に暑かったと思いきや、夜半から台風の吹き返しが吹き荒れ、明け方には雷が発生。下山準備をして雷の間隔を計りながら、雷雲が弱まったところで一気に梶川尾根を走り下った。引率顧問は、渡辺伸樹、金田久美子の両先生と私の3人だった。忘れられない合宿のひとつである。

IH(インターハイ)の思い出

 昭和58年、本校全日制へ転勤にともなって山岳部の顧問を担当するようになった。伝統復活には昔と同じことをすれば良いと、昔たどったコースをひたすらキスリングを担いで合宿し、3年後の昭和61年、山口大会のC隊(2位校出場)に出場権を獲得。結果は5位。まさに全国に手が届いた思いだった。たまたま出場したのは2年生ばかりということで、翌年に大いに意欲を燃やす。
 昭和62年、猛烈な頑張りで県総体をクリアーしてこの年も出場権を得て北海道大会へ。この頃は上位4校を優秀校として金メダルを授与していたが、その優秀校に入ることができた。
 以降、毎年、部員に恵まれて、全国への連続出場が始まる。
 選手になれた部員、なれなかった部員。入賞できた年、できなかった年と、それぞれあるが、部が一丸となって努力を重ねてきたことの成果である。
 加えて、全国高体連登山専門部の人事がらみで、全国常任委員を務めていた藤田善思先生が全国副部長に就任。その繰上げとして私が平成11年4月から全国常任委員に就くことになった。
 ついては、審査員として平成11年の岩手大会と12年の岐阜大会で任務を終えるはずだったが、審査副委員長を押し付けられて、結局、平成16年の島根大会まで全国常任を努めることになった。
 部としてのIHは通算20回。私自身の参加回数も20回を数え、平成19年の佐賀大会で「全国大会出場20回表彰」を受賞した。この20回表彰は6人目ということであり、まさに、部員と校内顧問に恵まれての賜物である。

平成16年7.13水害

 平成16年4月1日より校名が「新潟県央工業高校」と改称されて間もない、7月13日、五十嵐川の堤防決壊による水害被害は三条市の嵐南地区を壊滅状態にし、本校も甚大な被害を被った。部室で1.2mの浸水。島根大会にむけて準備していた装備は、点検のため2階の実習室に置いていたことから救われたが、計画書などは水没。その他の用具は、浸水水位以下のものは全てがドロの海に。回復不能のものは目を瞑って廃棄。救えそうなものは何回も何回も水洗い。生徒たちは毎日泥だらけになりながら良く働いた。学校や部の復活だけでなく、地域の被災者のところにもボランティアで出動。多くの資料・用具は失ったが、この素晴しい山岳部員が財産だと誇りに思った。

平成16年10.23中越地震

 水害被害からなんとか立ち直り、ようやく山に行くことができるようになったかと思いきや、未曾有の大地震が発生した。
 五頭縦走からの帰り道、若いOBの一行から「巻機山の家に着いた」と電話を受け、「棚上にあるビールを飲んでいいよ」と会話を交わして数時間後、「震源は魚沼方面」との報道に「小屋はつぶれたな」と諦めていた。ところが、21時頃だったか巻機山のOBから電話が入りビックリ。「車の中でニュースを聞いている」「帰った方がいいだろうか」というのである。三条の「無事」と明日の行動開始の方がより安全であることを伝える。
 翌日、彼等は長野経由で1日かかって帰ってきたそうで、帰着後の「山の家が無事だった」との知らせにもう一度、ホッとする。

部員減少の危機(平成19年度部員1人)

 17年度の入部者3人のうち2人が6月に退部して部の構成は3年3人、2年5人、1年1人に。
 18年度は2人が入部したものの春の大会でバテてしまって2人とも退部。3年5人、2年1人、1年0人と、部員の存在しない学年ができてしまった。
 そして19年度。2人が入部したものの、3年1人、2年0人、1年2人で県総体に正式エントリーできない事態になってしまった。その後、1年の1人が退部して3年が引退ということで部員は1人に。これまでに経験したことの無い危機的な状況となってしまった。

平成20年度復活の兆し

 正念場の20年度は、1年生4人が入部して、3年0人、2年1人、1年4人。まずは胸を撫で下ろして久々に気合を入れた大会準備となり、県総体では優秀校に入って北信越大会の出場権を得ることができた。
 そして秋には1年生がもう1人増えて部員は6人に。
 顧問も、フルマラソンランナーの今井直樹先生を中心に、これまた生徒以上に勉強会・トレーニングに頑張っておられる石川恵子先生を迎え、山岳部2年目の渡辺和博先生と、磐石の態勢である。
 三工山岳部から県央工山岳部と、その名を変えた我が山岳部の完全復活も近い。
 この原稿を、こうした明るい見通しで締めくくれることを心から喜んでいる。

平成20年10月30日


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