顧問の近況報告


OB会40周年記念誌への近況報告アンケート

@在部中の一番思い出深い山はどこですか?その理由は?

A最近、山に登っていますか?年に何回くらい?良かった山は?

Bいま、登ってみたいと思っている山はどこですか?その理由は?

返信のあったものを以下に順不同で紹介します。

今泉 源太郎

@昭和40年(1965年)に工業高校の1・2年と白馬岳と朝日岳から魚津浜に降りた山行。
理由は、初めて監督として行ったことと旧交をあたためたこと。

A残念ながら高齢(85歳)のため全く山に登っていない。

 ライダース・イン・ザ・スカイ63はとても面白かったです。部員が少ないのは残念ですね。
金子達先生が千葉に転居されたとは意外でした。
  一緒に山登りしたことが思い出されます。私は顧問生活は短くて、1、2、3回、4回、5回生くらい迄しかわかりませんが、85才を超えて今日迄どうやら生きてこられたのは、在職時代に高橋小一郎先生について立山、飯豊、朝日連峰などに登れたのがよかったと今でも思っています。OBの皆さんもきっとそう思うことがくると思います。(山登りをしてよかったと)
  39年夏に美術の増村先生が同行して1・2年生のパーティーで白馬岳へ行った。大雪渓から登って縦走して小川温泉へ下り、4日目は10年前まで6年間居た日本カーバイド魚津工場を見学した。旧知の同僚・上司の顔を見てなつかしかった。
  40年夏は1.2.3年がそろい、高橋先生に引きいられて朝日連峰を縦走して大鳥池に降りたが、この時はまぶたの上をブヨにさされてひどい目にあった。途中でどこかの大学のワンダーフォーゲル部の連中が、朝出たばかりなのに早や早やと幕営の準備をしているのに出会い、なるほどわたり鳥とはよく云ったものだと感心した。下山してバスで鶴岡へ出て酒田で羽越線にのり汽車で三条へ帰った。今は藤沢周平の小説やドラマで有名な庄内地方だが、当時は格別の記憶はない。

【この原稿は平成19年12月28日の消印で送られてきましたが、今泉先生はその3日後の12月31日に亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。】

高橋 小一郎

平成18年にふたつの大病をしました。

@肺ガン(4月)早期発見でした。県立ガンセンター入院

定位放射線治療で4回照射してガンは消え8日間で退院。新しい技術に感謝。4ヶ月ごとに再発を検査していますが異常なし。

A右下肢急性動脈閉塞(11/26〜12/9)

一過性不整脈で左心房で作られた血栓が右足の動脈にとんだ可能性が高いと、長岡の立川医院でバイパス手術(人工血管を入れる)を受けた。それで、すっかり足が弱り杖頼みで歩くようになった。

@の入院前に煙草を止めた。お陰で食事がうまくなり食も進むが、程々にして晩酌を楽しむ。

平成19年9月2日 金子達さん来訪。懐かしく想い出話しがはずむ。そして想い出を文章にして欲しいと頼まれ、その気になって自分誌までも。
10月9日 傘寿を祝う集い。嵐渓荘で姉弟らと息子8人。
10月19日 息子の車で二分口より守門・保久礼へ。堰堤工事でブルの音が響いていたが、カマボコ小屋は昔のまま。懐かしかった。
寒くなったので五十嵐川工事見物は好天の日のみ。

金子  達

A登っていません。

B秋田駒ヶ岳。先回風雨のため頂上を踏めなかったから。

サンデー毎日の生活です。晴耕雨読といえば聞こえはいいのですが、小さい庭に所狭しと植えた草木と、これまた猫の額ほどの畑に植えた野菜の管理−−主に害虫退治や細かい雑草取りや落葉取り−−をやり、国立歴史民俗博物館が近くにあるので、その研究用の図書室に出かけて資料集などをめくっています。
8月末に甲斐駒ヶ岳の麓にある滝の写真を撮りに行ったんですが、僅か1時間位の登りで足がつりそうになり情けない気持ちになりました。
1回生の斎藤さんはヒマラヤへアタックされていますが、山登りは無理な私はせめて麓から写真を撮りたいと思い、体力アップにつとめたいと思っています。

小倉  勝

9月20日にナマステ2000の会は月山に登って来きました。メンバーは、私、小杉、岸、小林昭、中澤、鵜頭の6名です。
コースは羽黒コースで8合目まで車で入りました。中間点の佛生小屋を少し過ぎたところで、鵜頭女史がダウンしてしまい、中澤氏がサポートして下りました。私、小杉、岸、小林の4名は月山頂上まで往復しました。

渡邊 伸樹

@思い出深い山は、初めてのインターハイ監督で登った鳥取県「大山」です。炎天下の中を責任感だけで登っていました。もう一つはニセ巻から見た大草原のような一面緑の景色は最高でした。

A最近はまるで山から離れてしまい、ノックバットを・・・。

B地元の焼ヶ山かな・・・。

6年間山岳部の顧問をさせていただいた、渡邊伸樹です。
三条工業(6年)から塩沢商工(6年)へ転勤し、現在は柏崎工業(2年目)に勤務しています。塩沢ではなぜか野球部の顧問になってしまい部長や監督を経験しました。今も柏崎工業では野球部の部長として毎日部活動で選手と練習しています。
さて、三条工業での思い出ですが、
「山は登った事がある?」という吉田光二先生の言葉に「白馬とかならあります。」
と答えてしまったのが、間違い??でした。「じゃあこれから道具を揃えに行こう。」と言われ、「コージツ」というお店に一緒に行きました。私が持っているカゴの中に、次々と山道具が投げ込まれ相当な金額になったことを覚えています。支払いの時は給料をまだもらっていなかった私に「立て替えておくからね。月々返済してね。」と言われてしまい、返す言葉もありませんでした。吉田先生とのこんな出会いが三条工業高校にいた6年間の始まりでした。
こんな事もありました。

吉田:「そういえば、伸ちゃんが山岳部の顧問になったのどうしてかわかる?」
伸樹:「採用された日には決まってましたよね。?」
吉田:「そうそう履歴書だけしか知らないからね・・・。」
伸樹:「いやー、わかりませんねー。」
吉田:「山形大学出身だからだよ。」
伸樹:「まじっすか!!??」

在任中の思い出は・・・と、いろいろ思い出してみると、「新人歓迎」「重荷」「インターハイ」「夏山合宿」「春山合宿」など本当にたくさんなのですが、思い出に共通しているのは、ほとんどの三条工業の思い出の場面には吉田先生が近くにいてくれて厳しい?指導があり、温かく見守っていてくれたお陰で今の自分があるんだなあと感じます。
あらためて吉田光二先生と三条工業山岳部に感謝いたします。
どうしても県央工業高校とは言えない渡邊でした。

藤田 善思

@巻機山。何といっても数をこなしている山。

A年4・5回(顧問OB会や巻総山岳部同行etc)

B機会あればどこの山でも。

在任4年に過ぎない短い期間でしたが、充実した思いでいっぱいです。
全国総体での上位入賞や校内独自山行の充実感、すばらしい部活動でした。そして吉田先生のご活躍、これまた充実したものでした。
審査員、審査副委員長として全国総体に寄与した力は充分すぎるものと確信しています。新潟のみならず、全国に通用するその吉田先生のもと青春の1頁を彩った卒業生諸子の幸せを共にしたいものです。
小生、退職後はヨット、オートバイと山以外の楽しみも加わり、それなりに充実した日々を送っております。OB会での再会を記念しつつ。
40周年おめでとうございます。

吉田 光二

2008年9月17日に緊急入院。急性白血病の一歩手前でした。治療がうまくいき、病態は落ち着きましたが、根治治療を目指して骨髄移植を受けることになりました。現在、大学病院からの入院呼び出しを待つ「自宅待機」です。一刻も早く完治して、皆さんに元気なレポートを送れるようにしたいと思います。(2008.12.5)


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