山岳部から現在までの山にまつわる思い出


高山 光

―山岳部時代―

 1985年高校入学。山岳部へ行きたいと思っていたものの「かねかかるろ!」と父にいわれ断念(山への興味は山好きな父の影響なのだが)。入部案内だけ遠くから見た。当時の先輩が手招きしてくれたけど・・・。21回生の先輩。ごめんなさい。
 その後、中学からのバレーボール続けるもやはりつづかなく退部。冬休みアルバイトで稼ぐ。
 1986年新年早々、稼いだお金を持って念願の山岳部の門を叩く。ゴローの靴買ったときだったか、スペースシャトルが打ち上げ失敗のニュースが流れていた。
 こうして1年生の3学期より入部した。後にわかったが、夏休みは先生がアルバイトを斡旋してくれるので、資金はそう困らないのであった。あああ。
初めての山行は大崎山。耐寒訓練。が、この冬一番の寒波のときらしく、零下10℃くらいまで下がったんだったか。テントの中みんな眠れなかった。夏用シェラフで最初はセーターも着なかったからな〜若かったな〜。
 初めての山らしい山、巻機山、春山合宿。ニセ巻のカチカチ斜面キックステップ怖かった。旧小屋で食べたコッヘルで作ったプリンうまかった。この感動、ハガキに書いてラジオに送ったらしっかり読まれた。

―山口インターハイ―

 なんのことやらわからなかったが、選手達が次々と故障し、自分に白羽の矢がたった。山口に行く事に。夏山の訓練。つらかった。精神的なプレッシャーが特に。弥彦の沢登り訓練などもしたが、思い出すとせつなくなる。個人的にはなんでこんなときにの鼻血ブーでものすごくつらかった。が、みんなもなんだかんだとものすごくつらい思いしていた。やっとの思いでゴール。成績が後に5位と知ったときはびっくりだった。
 一仕事終えた感じがして、この年後半の山行は楽しかった。朝日連峰、妙高山、会津駒ヶ岳。なにはともあれ忘れられない年となった。

―1987年3年生の年―

 すべて最後。全国大会で金メダルを!なんとなくこれ目指すことになっていた。訓練のつらさ思うとなんとなく逃げ出したくなる心境にかられつつ、迷いつつこなして行く日々。6月の妙高山での県大会。優勝してしまった。ほんとに複雑な心境だった。はは。

―北海道インターハイ―

 2回目というだけでずいぶん余裕ができた。装備の改良や軽量化もよく出来た。大会は天気に恵まれず。が、逆に暑さにやられる事なく終わる。少なくともやれるだけのことはやった気がしていた。そしたら・・・金メダル。順位では惜しくも2位。やってしまった。信じられないでいた。
 後半は去年と同じくらい楽しい・・・高校最後とあって悲しくもあった。

―福島時代―

 電力会社に入社。福島県はいわき市で6年半、会津若松市で1年半過ごす。
 吉田先生より渡辺五郎さんを紹介され、山スキーを教えてもらう。毎年シーズンに3〜4回くらい行ってたろうか。吾妻、安達太良は面白かった。燧や駒、鳥海山はすばらしかった。最初は必死についていくだけで精一杯だったが後半は楽しめた。五郎さんその節は大変お世話になりました。
 地元の山岳会「石城山岳会(いわき山岳会)」に入会。何度も辞めようと思いつつも、あちらの人たちのカラッとした人柄にふれるとなんとなく居続けてしまった。縦走、沢登り、岩登りのまねごとなどなど。福島国体の役員もやり、1997年にはモンゴルの登山隊の仲間に入れてもらった。貴重な体験いっぱいさせてもらいました。会友をへて退会。
 個人的には、マウンテンバイクを流行りだした1990年頃購入。いつしか、いわき〜三条間を走破し、いつだかは、太平洋の朝日を見て出発、日本海の夕日を見るツアーを完走した。うれしかった〜。そして、とうとう、歩いていわき〜三条をやってしまう。4日かかった。スニーカーではだめということがよおくわかった。
 そしてそして、1995年2月、日本一周徒歩旅行した人の本発見!これだ!と一気に思い、退職を決意した。

―日本一周てくてく旅行―

 1996年3月いっぱいで退社して帰郷。4月10日、三条を出発し、新潟〜福島〜東京〜大阪〜山口〜九州〜沖縄〜福岡〜山陰〜福井〜北海道〜福井〜新潟〜青森〜岩手〜福島〜新潟と歩いて、11月10日、三条の実家に戻った。丸7ヶ月。約120万円。
 なんか変わると思ってたけど、なああんにも変わらない。っていう言葉を旅前に知っていたが・・・その通りだと思った。でも、めちゃくちゃいい経験、いい思い出。

―寿司屋時代―

 あの「花もと」へ。休みが月曜のみとなるが、これ幸いと静かな山を堪能した。2000年ころからなんだか個人山行の楽しさに気づく。天気のいい日だけ狙って、帰りに温泉に入るという楽しみも見つけた。病み付きになっていた。そんなころ、友人より現かみさん紹介され、結婚する事に。ちなみに、かみさんも陸上部育ちながら山登り好きなのであった。花もと4年間、ありがとうございました。

―結婚就職迷走?―

 昼の仕事へ戻り、結婚生活スタート。かみさんと巻機山にも登った。高校時代そんなことも夢見たなあ。叶ったよお。他、近くの山登ったりする程度。そのうち子供が出来る。と同時に仕事もあやしくなる・・・。
 子供生まれる。仕事うまくいかなくなり退社。失敗繰り返しつつ、燕の親子の工場へ。スピニング加工。とても良くしてもらう。弥彦山がずいぶん近く見えた。とても山登りできる生活ではなかったが、行きたいと言う気もさほどしなくなっていた。親子3人で巻機山の家に泊まった。そんな事も夢見た・・・気がするなあ。叶ったよお。トレーニングらしいことまったくしなくなる。現役時代は故障と無縁だったのに、ときどき腰痛が出るようになってしまった。2人目誕生。とても良くしてもらっていた職場ながら、どうしても自分に納得できずにいた。そこへ新たな声がかかり、現職場へ転職。大正解。しかしながら、ものすごく忙しく、山のやの字も出てこない日々。

―スローライフ、里山暮らし―

 ふっと山スキーしたいと思うときがある。が、今はなんとなくそういう山よりも暮らしである。里山の暮らし。そこにすごい興味が移った。そして、2007年、旧下田村に中古の土地家購入。山が近くなった。川も近い。薪ストーブもいれた。里山に関わるようなことしたいと思いつつ、もう少し子供が大きくなったら、八木鼻くらい行ってみようかと考え中。でもいつしか、沢登りや山スキーしたいなあああ。と、自分が中高年になるころに再開のようである。

―ラッキー6―

 インターハイ初出場86年、日本一周96年、転職2006年と、いいことは10年おきに6の年にやってきた。つぎはどうなるか・・・乞うご期待。


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