回想録2


金子 達

匂い

 「あゝ 山へ来たなあ」と感じる時の要素のひとつに「匂い」があります。私は三つの「匂い」に思い出を持っています。
 青森トドマツ・ヒノキなどの林に入ると、特殊な揮発性の匂いがしてきます。フィトンチッドという物質で、人間の健康に有効な働きをすることもわかってきました。私はこの匂いに山へ来たことを感じます。
 ゴールデンウィークの頃ですと、「朴」の花の匂いが思い出されます。五頭山のスキー場の近くのキャンプ場へ向かう橋の上に立つと、どこからともなく、いい匂いが漂ってきます。どこかに朴の花があるんだろう、と見上げると、ありました。クリーム色の大きなカップのような花が咲いています。
 山形県の酒田に住んでいた小学3年の時、父の知人が、我が家にこの花を持ってきてくれ、「バナナの花」だという話を私はズーと信じていました。本当のバナナの花なんか見る機会がありませんでしたから。
 夏ですと、「葛の花」の匂いです。山からおりてきて、沢沿いの道に入ると、甘い匂いがしてきて、里が近いのを感じます。気をつけてあたりを見ると、つるの先きの葉の間に赤紫の房状の花が見つかります。

晴男・雨男

 あなたは「晴男」ですか、「雨男」ですか。
 私は20代の頃「雨男」でした。
 考えてみれば、天気の巡り合わせと、山岳部の山行のローテーションが合致してしまったんでしょう。出かけるたびによく降られました。
 昭和44年に長谷川一良君と長崎国体に参加するので、当時としては破格の値段だったアメリカ製のポンチョを買いました。それが私の20代最後の年でした。
 このポンチョがツキを呼んだのか、このあと、このポンチョを使う機会があまりありませんでした。
 高校山岳部の山行というのは、学校行事などの関係で、毎年同じ時期に出かけていますので、天気の巡り合わせと微妙にズレてしまったのだろうと思います。

シーハイルの歌

 6回生の川崎(現姓吉田)君・破入君・竹石君たちと関西方面へ修学旅行に行ったのは、昭和45年3月のことです。当時の修学旅行は、春休み中に行われました。京都で3泊、奈良で1泊、また京都へ戻って1泊という、今日では考えられないような長旅でした。
 四条河原町に「炎」といったか、大きな歌声喫茶があり、三条工業の山岳部の面々がステージに上がって歌ったのは、最終日の夜のことだったと思います。
 私も川崎君にうながされてステージに上がりました。歌ったのは「シーハイルの歌」でした。わたしたちが山で焚火を囲んで歌う時のように、ゆっくり、ゆっくり歌ったので、伴奏と合わなくなり、伴奏の人の方で合わせてくれたように覚えています。万天下に三条工業山岳部の名を高めたか、それとも恥をさらしたか・・・。

水を買う

 昭和43年7月末の後立山縦走の夏山合宿で、「(冷池)小屋では1リットル50円の雨水を売っている。馬鹿馬鹿しくて買う気になれず、テントフライよりしたたり落ちる水をコッヘルに集め、夕食を作る」と長谷川一良君は書いています。
 昭和45年8月末の苗場山での第3次合宿でも、水が得られなくて池塘の溜まり水を沸かして使ったように覚えています。普通の水を金を出して買うなんて、この頃は長谷川君が書いてますように「馬鹿馬鹿しい」と考えている人が多かったと思います。
 ところが、平成19年8月に出かけたバスの旅で、甲斐駒ヶ岳の麓の滝を見に行ったんですが、添乗員さんから「沢の水は飲まないで下さい。野生動物が水源地付近に出没していますので・・・」という注意を受けました。
 昔は、川には「自浄作用」があって、流れている水は綺麗だから飲んでも大丈夫だ、いわれていたけどなあ。

ホシガラス

 ホシガラスの名を知ったのは、昭和41年8月4日、朝日連峰の以東岳からオツボ峰へ下る途中でした。岩の上に食い散らかした這松の実を見た時、「これはホシガラスの仕業だ」と教えて下さったのは、今泉源太郎先生だったろうか。
 まだこの時は、その姿を見てないので、ホシガラスってどんな鳥なんだろう、やっぱり「カア カア」と鳴くんだろうか。自分の食卓を持っている鳥なんだから、紳士・淑女なんだろう、なんて思ったりしていた。
 後日、白馬岳でそのホシガラスの現物を見ることができました。カラスよりかなり小さい鳥で、頭のテッペンに黒の帽子をかぶり、身体は白と黒のチェックのチョッキを着ているような感じで、カラスよりは品のいい感じがしました。でも、鳴き声はやはり「カア」でした。

山の衣食住

 私が山岳部顧問になったばかりの昭和40年代の山の衣・食(炊事)・住のスケッチをしてみましょう。
[衣] 「ニッカーボッカー」というのを今の若い人は知っているだろうか。半ズボンの一種で、膝下で裾をベルトで締め、ゆったりと仕立てたもので、高い所で作業するトビ職の人たちがはいているダブダブのズボンと野球選手のズボンの中間の物を思い浮かべてもらうといい。
 明治開化期の写真を見ていると、このニッカーボッカー姿で、ゴルフやテニスをやっている人たちがいます。資産家のスポーツ着だったわけで、登山でのニッカーボッカースタイルもそうした資産家のスポーツ着の流れを伝えているものでした。
[食(炊事)] いまは山で煮焚きするとなると、ガスコンロが主流かと思われますが、昭和40〜50年代は石油コンロが主流だった。
だが故障が多くて扱いにくいものだった。インターハイ予選の審査でも、コンロの扱いが注目されました。
 スウェーデン製のスベア、ドイツ製のオプティマスがいいといわれてましたが、高価であった。ウチダから「マナスル」という商標で国産品も出ていましたが、当たりはずれがありました。
 故障の原因の多くは、ノズルにススがつまることなので、「マンドリン」という掃除棒が必需品だった。
[住] テントの中で寝袋の下に敷く物は、昭和40〜50年代はエアーマットでした。昭和40年代の終わり頃、高橋小一郎先生が、建物の断熱材として使うポリウレタンの薄いシートを手に入れられて、後生大事に使い始められました。
 ポリウレタンが出はじめた頃は、高価なものだったようで、高橋先生の持っておられたのは、身体の幅くらいしかないものでした。
 ポリウレタンは軽くて、かさばらず便利そうでしたが、破けやすいというのが難点でした。

駆け足

 昭和40年代の山岳界では、軽量化、軽量化といわれていましたが、それでも1泊の幕営となると、一人分の荷物は20キログラム位にはなったでしょう。
 帰りは食料の分だけは軽くなるのですが、山岳部の帰りはいつも駆け足になるのだから大変でした。
 山工山岳部のホームグランドの粟ヶ岳の場合、下田側だと八木前まで、加茂側だと中奥農場まで、橋立からだと高柳までの駆け足です。
 巻機山へもよく行きましたが、清水まで行くバスの本数が少なく、時間によっては、沢口までの駆け足になりました。

トイレ

 中国の奥地などへ行きますと、バスで移動中にトイレの悪い所があります。家内にその話をしますと、「エーッ、トイレが無いの?じゃあどうするの?」といいますので、「青空トイレさ」と答えますと、「外で?いやだあ」と顔をしかめます。
 雪のあるシーズンの幕営は、通常の幕営地でないところに設営されることが多い。勿論、トイレなどはありません。雪穴を掘ってトイレを作るんですが、これはなかなかいいものです。
 トイレはテントから離れた所に設営されますから、歩いていくうちに身体が冷えてきます。思い切りよくズボンと下着をさげると、お尻をなでる空気がいさぎよいのです。
 自分の排泄物が直接自然に還っていくというのは、なかなか感慨深いものがあります。雪虫が雪の間をはいずり廻ってたりしているのも見えたりもします。
 トイレの水でジャーッと流し去ってしまうのは殺伐として情緒がないというものです。
 雄大な自然の中で爽快感さえ味わえるのですが、こんなこと何分しゃべっても、家内は理解してもらえないだろうなあ。

ピッケル

 佐倉へ引越した時、高橋小一郎先生への転居の挨拶状に、「もう雪の山へ登ることなんかないだろうけど、ピッケルを捨てきれず、持ってきました」と書きましたら、高橋先生からの返事に「私も同じです」とありました。
 しかし、私の機械鍛造の大量生産品のピッケルと違って、高橋先生の物は、札幌の門田(かどた)製の手づくりの業物(わざもの)ですから、家宝とされてもおかしくないものです。
 考えてみれば、ピッケルを使うような場面へは行きませんでしたから、足場作りにカッティングをしたくらいのものでした。

 「4時30分起床。テントの入口を開けると、待ってました、とばかりに蚊の大群が侵入してきた。防虫スプレーも蚊よけの超音波もききめなし」と書いたのは、私が新潟西高校に移ってから出かけた平成元年8月の朝日連峰での夏山合宿の最終日の朝日平教育キャンプ場でのことです。
 それから18年たった平成19年11月21日の朝日新聞の「『超音波で蚊よけ』効果なし」という見出しに目が吸い寄せられました。こんなことが18年も放置されていたのです。
 ヤブカは昼間活動型の蚊ですが、夕方と朝方に蚊の来襲する時間帯があって、私たちは「蚊の出勤時間」と呼んでいました。この何年かあと、星野知子さんの旅行記にアマゾンの奥地でもやはり蚊が来襲する時間帯があって、「モスキートタイム」といっていたと記されていました。
 蚊より怖いのはブヨの方です。私が初めて参加した夏山合宿は昭和41年8月の朝日連峰の縦走で、平岩山から少し下った所にある幕営地で、今泉源太郎先生が目の上をブヨに刺され、腫れて、腫れて、大変なことになってしまいました。虫刺されの治療薬といったらアンモニアですよね。手に入りやすいアンモニアもあったんですが、使われたのかどうか。腫れは下山するまでひきませんでした。

軍歌とボンガイヤ

 平成19年9月3日に高橋先生のお宅をお訪ねした時、小路に面したガラス窓に憲法9条を守る会のポスターが貼られていました。「教え子を二度と戦場に送るな」は高橋先生や私などが所属していた日教組のスローガンです。城山三郎の「旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため」で始まる「旗」という詩と共通するものです。
 それがですよ、昭和40年代、三条東高校に吉副・本間という高橋先生と同年配の顧問がおられたので、三条地区の山岳部顧問の宴会などで酒がまわると「轟沈」という軍歌が出てきて、何度も繰り返し唄うのです。
 でも、高橋先生が生徒の前で唄う十八番は「ボンガイヤ」で、センチメンタルなメロディと豪快な感じの高橋先生とのミスマッチが面白いんです。
 この歌のことについては、「マスター」こと増田先生が部報の10号に書いています。高橋先生はどこでこの歌と出逢ったんだろう。

石小屋沢

 スパッ スパッと直径3p位の木の枝まで切れるので、時代劇の名剣士になったような気がしました。4回生の志田君が家から持って来てくれた大きな草刈鎌で、石小屋沢への道の草刈りをやった時のことです。それは石小屋沢が三条工業山岳部のホームグランドだという意識からの草刈りだったのです。
 石小屋沢は高度はさほどではないのですが、三工尾根と名付けた地点まで登るとかなりの高山に登ったような気持ちになります。「シルバーザッテル」なんて名前は前からついていましたが、「嫌がらせの滝」「チ○○ボ岩」「這松のコル」などは三工で勝手につけた名前です。
 沢で泳いだり舞台のような大岩の上で歌ったり木から木へ飛び移ったりと、遊びいっぱいの第2次夏山合宿はゆったりした時間の持てる最上の贅沢なものでした。
 井沢八郎の「あヽ上野駅」のメロディーで石小屋は三工のこころの山だ・・・と私は唄います。


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