回想録1


金子 達

 昭和43年の春山合宿は、粟ヶ岳から宝蔵山―白山を往復するものでした。しかし、この時の記録は部報には載っていません。

 粟薬師の上部まで登ったところで、大谷(昭五)君だったかが、動けなくなってしまったのです。聞いてみると、朝食を食べてこなかったのだといいます。その時、私はフッとウルトラマンを思い出しました。
 どうしてウルトラマンかといいますと、ウルトラマンはエネルギーの残量を示すランプを胸にさげていて、少なくなるとそれが点滅し、果ては消えてしまうのですが、大谷君の胸のランプが消えてしまったんですね。こいうことってあるんだなあと驚いたことを覚えています。

 「渡辺」といっても「五郎君」のことではありませんよ。「ワタナベのジュースの素です。もう一杯」とラジオでダミ声のコマーシャルソングを歌っていたのは、エノケンでした。この渡辺の「ジュースの素」とそのライバルの春日井の「ソーダの素」には随分とお世話になりました。
 即席ラーメン、インスタント味噌汁、インスタントコーヒーなどのインスタント食品が次々と出まわって、山登りも楽になりました。
 ハウス食品だったかからインスタント豆腐が発売されて、これはいいぞ、山の冷たい水で作ったら美味しい豆腐ができるだろうなあと思っていましたけど、すぐ店頭から消えてしまいました。だから、1回も山で作ったことがありません。
 だけどまだ細々と生き残っているようで、スウエーデンに住む娘は、インターネットで取り寄せて日本の味を楽しんでいるといいます。

 「おおはら」―漢字で書けば「大原」なんですけど、私はどうしても「ふとっぱら」と重なってしまいます。それは4回生の大原正昭君の存在があるからです。
 彼は実によく食べました。山に出かけて御飯が余ってしまったなんていっても、三工山岳部では何の心配もありません。「太っ腹」君がいたからです。彼がみんな綺麗にたいらげてくれたからです。いまはどんな体型になってるんだろう。

 昭和40年代は貧しかったです。みんな貧しかったです。登山は、水泳パンツひとつでいい水泳とは違って、装備だ、やれ旅費だ、食費だと金がかかります。
 非常食は、いまなら「使わなくて良かった」といって帰りの列車の中で食べてしまうでしょうけど、この頃には何回もの山行にず〜っと持ち続けていました。羊羹などは端が砂糖のように白くなってもまだ持ち歩いていました。
 牛乳はビンの時代で、ビンを返すといくらかお金を戻してもらえるというので、帰りには邪魔になるビンをちゃんと持ち帰りました。そうやってケチって1回でも多く山へ登れるように頑張ったんです。さわやかなケチっていいですね。ホント。

 山で焚火を囲むことはいっぱいありましたが、昭和45年7月31日の朝日連峰縦走の最後の夜の焚火は忘れられません。
 五味沢から入って祝瓶山から北に向かい以東岳から大島池に向かって下りました。東大鳥川沿いの林道の脇にテントを張ってパンツひとつで川で遊び、流木といっても大木をみんなで押したり引いたりして運びました。その大木にまで火がつくと、それはそれはチョー豪華な焚火になり、凄く楽しく盛り上がった夏山合宿の夜になりました。

 全国的にはたいしたヒットをしなかったけど、三工山岳部では大ヒットした歌があります。それは「蔵王エコーズ」です。
 これは私(金子)がダークダックスの歌っているドーナツ盤のレコードを買ってきて覚え、テントの中でみんなに教えたのです。
 冬山合宿などは、夜は雪を溶かして水を作るくらいの仕事しかありませんから、知ってる限りの歌を次から次へと歌ったものですが、渡辺五郎君がこの「蔵王エコーズ」が大好きで、箸やシャモジをタクト代わりにして振り廻し、この歌をよく歌ったものです。こう書いているとあの薄暗いテントの中の光景が思い出されてきます。

 昭和44年4月、春山合宿で守門岳へ出かけました。我々より一日遅れて体育科の清水勉先生が大きな荷物とスキーをかついでやってこられました。守門岳は頂上から滑りおりる滑降スキー大会で有名で、清水先生も頂上から滑りおりてみたいというのです。さて、その大きな荷物のなかには“ナント”豆炭アンカが入っていたのです。アハハッ。

 清水先生は翌朝、念願の守門岳の頂上から滑降して荷物を持ち帰るため、幕営地の保久礼に立ち寄り水場へ水を飲みに行ったんだそうですが、暖気で水場へ降りていく雪の階段が崩れてボッチャーンと沢へ落ちてしまったんだといいます。これはあとで聞いた話ですけど・・・。

 

 妙高国際スキー場はまだ開設したばかりの昭和41年12月のことです。
杉野沢から歩いてスキー場に着いたけど、キャンプ場があるわけではないので問題は水の確保でしたが、幸い小川が道路のすぐ横を流れていました。
 生徒の方は短時間の練習で腕を上げました。中年で、しかも運動神経の鈍い私はさっぱり上達しませんでしたから、重いキスリングを背負って杉野沢を目指しての最後の滑降は、転ぶたびにキスリングが頭の上の方まできて、雪の中でもがくこともがくこと。
 さて我々が飲んでいた水ですが、私は参加しませんでしたが三工山岳部は翌年も同じ所へ行ったのです。その時の話では、その小川にはロッジの排水が流れ込んでいたのではないかというのです。そんな水を飲んでいたのか・・・。ゲーといってももう遅いですよね。誰も病気になる者が出なくて良かったです。ホント。

 5回生の長谷川一良君の綽名は「チャボ」です。さて、これはどこからきてるのでしょう?鳥のチャボからですって。ブブー。はずれです。
 長谷川君が入部した時、1年生は彼だけでした。新入部員といえば飯炊きや食器洗いなどの下働きの仕事がいっぱいありますよね。なんたって新入部員は彼だけですから、「長谷川」「長谷川」と仕事をいいつけられてもう大変でしたが、彼はクルクルと身体を動かしてよく働いてくれました。それでついた綽名が「茶坊主」だったんですが、それが縮まって「チャボ」になったんです。別名「火付けのチャボ」ともいわれ、実に火を付けるのが上手でした。これは師匠の高橋小一郎先生譲りといってもいいでしょう。

 山登りをするようになって、いろいろな花の名前を覚えました。その中で忘れられないのはニッコウキスゲです。エッ、ニッコウキスゲなんて最もポピューラーな花が何んで・・・と思われるだろうけど、まあ聞いてくださいよ。
 時は昭和42年8月9日、所は飯豊連峰の種蒔山直下の幕営地。周りにはニッコウキスゲがいっぱい咲いていました。この花は一日花だというじゃないか。それならこの花ですまし汁を作って食べてみようということになりました。
 いまなら、国立公園の自然保護パトロール員に正式な幕営地でもない所にテントを張り、しかも高山植物を採ったりしたら始末書ものだろうけど・・・。
 ニッコウキスゲの花が食べられるから食べてみようといいだしたのは誰だったんだろう。味はどうだったかって?さっぱり覚えていない。その後、機会はいっぱいあったけど二度と口にしたことはありません。

 現在、部報はどうなっているんでしょう。部報を創刊する時は、印刷費と送料はOBのカンパをあてにしていました。しかしまだ卒業して間もないOBたちも苦しく、期待していた程のお金は集まりませんでした。
 それで、高橋先生と私とでガリ切りをすることにしたんですが、学年末の学校はハードスケジュールになっていて、そんななかでのガリ切りをするのですから、大変でした。
 4号の編集後記を見ると、「特に高橋先生の頑張りは大変なものでした。スキーで右手を痛めたんですがサロンパスをはりながら原紙を切って下さいました。この本の大半はそうした高橋先生の字でうめられています」とあります。


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