大原 栄一
春夏秋冬 四季折々に変化する山
そのときどきにチャレンジする人々
初めて登った山 最後に登った山
そして 苦しみと喜び
一筋の登山道を汗をしたたらせ、重い荷物を背負い、ただ黙々と歩く。この単調で苦しい行為の後に束の間の喜びがある。苦しみが長く辛いほど喜びは深く短い。
出会い 友情 そして別れ
束の間の人生の中にあってひとつテントの中で寝食を共にする仲間たち、深い絆で結ばれた顔々々・・・。
いつか閃光のように思い出が湧いてくる。くるくると変わる場面、とぎれとぎれの記憶・・・。
突然おとずれる現実、現実が厳しければ厳しいほど、人は昔を懐かしむ。
春植えた苗が秋に実り、収穫され、又春植えられる。人もまた、年々歳々年をとる。だが深い絆で結ばれたOBたちには、別れはあっても友情に変化はない。
私が登山部の顧問になって10年。10年というと長いようであるが、過ぎてみればほんの一瞬のできごとである。
10年の間にはいろんな出来事があった。それは楽しさより苦しさが多かったはずである。だが思い出は全部楽しさに変えてくれる。断片的に思い出しても、「ネンザ」あり「骨折」あり、また生爪をはがしたりもした。しかし、それらも今振り返って見ると楽しい思い出としか浮かんでこない。その中でも一番印象に残っているのは、何と言っても高橋先生が倒れられた時のことである。
この時のことは、今になっても昨日のことのように思い出される。それまでの私はすべてにおいて、高橋先生に「オンブにダッコ」であったために、これから先の部のあり方、また目前に迫るインターハイの当番校と、どれひとつを取り上げても私には荷の重過ぎる問題ばかりであった。それでもまがりなりにも何とかやって来られたのは、それまでの高橋先生の「財産」の賜物であった。
それから後の部活動はこの財産をなくさないように、伝統を守り、さらに発展させようと増田先生と二人で力をあわせて努力してきたつもりである。
しかし笛吹けど兵動かず、一時は休部も覚悟した。今から思えばこの時が私にとっては一番苦しい時期であったように思われる。
現在の登山部は、増田先生の基に結束し、県大会でもそれ相当の成績をあげるまでになったことは非常にうれしいことである。
私は、この4月で登山部顧問という肩書きにピリオドを打った。またいつの日か縁があって顧問を引き受けることがあるかも知れないが、現時点ではここでひと区切りついた。
私にとってはひとつの歴史が終わったことを意味する。
部のためにはもっと早く身を引くべくであったと思われるが、いつのまにかここまで来てしまった。
私の技術や知識では、本校の登山部を指導し、統制して行くことはできないことを、私自身十分自覚していたつもりである。
今まですべて高橋先生を中心にしてやって来たのが、ここへ来て突然柱を失ったために私に比重がかかるようになった訳で、私の役割は早く高橋先生の代わりを見つけ、その人にバトンタッチするまでのつなぎをすることだと考えて、今日まで勤めて来た。
さいわい、ここに増田先生にすべて引き継ぐことが出来、ほっと肩の荷をおろしている昨今である。
先にも述べたように、この増田先生を中心に現在の登山部は結束し、県大会でも入賞寸前の所まで盛り返して来た。一時は休部寸前となり、大会に参加しても「参加することに意義がある」というような負け惜しみを言っていたのである。
漸く部としての体裁を整え、活動も軌道に乗って来た。だがひとつ心配なのは、一年生が少ないことである。来年の新入生が大勢入部し、今よりも、もっともっと活気ある部に成長することを祈っている。
私は今後どこに定着するかは定かではないが、どこにいってもこの10年間のような楽しい思い出はできないのではないかと思う。
人生楽ありゃ 苦もあるさ
くじけりゃだれかが 先にゆく
後から来たのに 追いこされ
泣くのがいやなら さあ歩け
この歌の文句ではないが、これから先、しっかりと自分の足で歩いて、良き思い出を作りたい。
歳を取り、若かりし日々の思い出のページをめくるなら、そこには今までの出来事が走馬燈のように駈け巡ることだろう。次から次へと消えてはまた浮かぶ、思い出が尽きることはない。その中心となるのはこの10年間の出来事だろうか、それともこれから先の出来事であるだろうか。それは閃光となって、ときをこえて私の前にあらわれることであろう。
OB会15周年記念誌に寄せて
※昭和56年発行「ライダース・イン・ザ・スカイ」15周年記念号掲載