ヒマラヤの峠を越えて


長谷川晴一

編者注:長谷川晴一さんの同意のもとで、2002年4月〜5月の2ヶ月間にわたるネパール・チベットの旅の膨大な道中記より、閉鎖されたチベットからネパールへの国境の通過とネパールでのマオイストとの遭遇の部分をピックアップして掲載します。それ以外の部分については長谷川さんのHPをご覧ください。

旅程
●4/23 成田→シンガポール
●4/24 シンガポール→カトマンドゥ
●4/25〜26 カトマンドゥ
●4/27 カトマンドゥ→ラサ
●4/28〜5/1 ラサ
●5/2 ラサ→ギャンツェ
●5/3 ギャンツェ→シガツェ
●5/4 シガツェ→ラツェ
●5/5 ラツェ→サガ
●5/6 サガ→パルヤン
●5/7 パルヤン→マユム・ラ
●5/8 マユム・ラ→タルチェン
●5/9 タルチェン→ディラ・プク・ゴンパ
●5/10 ディラ・プク・ゴンパ→ズトゥ・プク・ゴンパ
●5/11 ズトゥ・プク・ゴンパ→タルチェン→マナサロワール
●5/12 マナサロワール→プラン
●5/13 プラン→ヒルサ
●5/14 ヒルサ
●5/15 ヒルサ→ヤリ
●5/16 ヤリ→ムチェ
●5/17 ムチェ→ケルミ
●5/18 ケルミ→シミコット
●5/19 シミコット→カトマンドゥ
●5/20 カトマンドゥ
●5/21 T君はカトマンドゥ→バンコク

ストーリーの要約

 ネパール西部でマオイストが活動中のため、ネパールガンジの空港が使用できず、計画を急遽変更せざるを得ない。計画とは全く逆のコースをたどることにする。
 カトマンドゥより空路にてラサへ、ポタラ宮はじめ諸寺・諸仏を参拝す。その御利益か?夜半ホテルでのこと、孤高の人T君の室内電話が鳴り、何事かと怪しめば、ややあって、もったいなくも“ダキニ天”がミニスカート姿にて御降臨あそばされた。日頃豪胆で聞えたT君ではありますが、あまりにも畏れ多く、唯々ひれ伏し、五体投地を繰り返し、お引取りを願ったのでした。三宝に帰依し戒を保つは仏道の始めなり、夢々疑うこと無かれ。
 ラサをあとにしランドクルーザで、ひたすら西方の“タルチェン(大金)”を目指す。念願の神山カイラス、コルラを果たし、聖湖マナサロワールをへて、ネパールへ出国のため、チベット奥地“普蘭(プラン)”の町にいたる。
 「ボーダーはしばらく全面閉鎖である」辺検站の軍人から通告される。
 「我らリーぺンのグループツーリストなるぞ、通せぇー」
 「通すことまかりならぬ、さがれ、さがれ」
 このまま引き返さねばならないのか、えーぃままよ。女房の高山病もどきに救われる。点滴、酸素吸入、とどめは洗面器にオシッコ?今回の旅で最大の難関であった。逃げ去るようにプランの町を後にして、シェラの村からネパールへ脱出。
 徒歩でナラ・レク4,580mを越えてヤリの村へ、カルナリ河に沿って旅は続く。マオイストを名のる山賊はダラポリの村はずれで待っていた。小銃を突きつけられ100$を強要される。マオイストの領収書に並んだ5人の顔写真とは?お前ら冗談もほどほどにしろよ。シミコットの飛行場が見えたときはホットしました。

閉鎖された国境の通過

5月12日 マナサロワール湖→プラン


岩山に建つチュウ・ゴンパ

 日の出前に一人で小高い丘に登り、夜の明けてゆく不思議な光景を見つめる。
 今日はナムナニの山裾を回りこんで国境まで行くつもりですが。
 マナサロワール湖とラカスタル湖を隔てる、緩い丘陵を越え、ナムナニ山裾の扇状地を突っ切り、さらに南へ向かって下るとカルナリ河源流です。ここからはガンジス水系となります。
 谷間に村が現れました。標高は約4,000mです。先ほどまでの乾燥地帯に比べれば、桃源郷です。村は春の農繁期、チンコー麦の植え付けの真最中、ヤクや馬で起耕し、すぐ種籾をまいていました。
 プランの町に着いたのは、お昼頃でした。町はカルナリ河の段丘面に開けた小さな田舎町ですが、インドのアスコットに通じるリプレク・ラ(約5,500m)の峠越えも合流する、国境警備の拠点であるため、軍人の姿がやたら目に付きます。朝夕の軍事訓練の緊迫した掛け声は、周囲の岩山にコダマし、その声から百人を下らぬ人数でしよう。
 我々はランクルを町の南側、町外れに近い表通りに駐車しました。化粧のやたらとケバイお姉さん達が、お昼過ぎだというのに、歯磨き・洗面に現れます、廃水は表の通りへぶちまけます。どうやらこのあたりは軍人相手の飲み屋街で、厚底ブーツなど履いた、いかにも、それらしい若い女の多い町でした。
 町を見下ろす北西の岩山には、歴史を物語る王城跡が聳えていますが、かつてプランが一国であった輝かしい時代の誇りも、無骨な軍靴とがさつな厚底ブーツに、踏みにじられているように思えるのは、私のえこひいきのせいでしょうか。この町で我々は、ネパールへ出国という、重要な手続きを、しなければなりません。ラサからここまでの道すがらチベット・ガイドのソニーと話し合って、はっきりしてきたのですが、我々には問題が二つありました。
 一つはグループビザの問題です。当初の計画では日本からの3名と、ネパール・スタッフ2名で、計5名からなる一つのグループを作り、ネパール側シミコットから中国へ入国するつもりでした。それなら問題は無かったのですが、逆コースとなってしまい、我々3名が先に航空機でラサ入りし、ネパール・スタッフ2名は、後からトラックで中尼公路経由入国し、途中合流した。そのため5名以上からなる、一つのグループとは認識されず、個々のパスポートに入国スタンプが押されており、グループビザではないことです。
 二つ目は、我々の持っている中国側発行の旅行許可証に、記載されているルートが希望するルートではありません。ラサからカイラス、マナサロワールまでは良いのですが、その後、往路をラツェまで戻り、中尼公路のザンム(樟木)からネパール側のコダリへと、なっていることです。
この旅行許可証は、我々の旅行をアレンジしてくれた、ネパールのトレッキング・エージェントHSAが、中国側の旅行会社を通して入手したものです。ラサからカトマンズへFAXされてきたコピー(感熱紙)を、HSAの社長であるMrブルバから、ネパール出国の際に渡されました。Mrブルバには、
 「我々は幾つかの目的を持っている」
 「その中でも、一番重要なのは、シミコット〜プラン、ルートのトレッキングである」
 「ヒマラヤの峠を越えたいのです、歩いて、自分の足で」と下手な英語ではありますが、しつこいくらい説明していたので、HSAが手配ミスをしたとは考えられません。
 しかし、中国からFAXされてきた旅行許可証は、当然漢字で記載されおり、コース途中の通過地名がMrブルバには、読めなかったはずです。我々も神山がカイラス、聖湖がマナサロワールであるとは、直に理解できませんでした。問題は中国側の旅行会社にあったのでしょうか?
 ラサのホテルで2度ほど会った、中国側旅行会社のボスらしいMrダシンは、細身・長身の体躯を黒のスーツでつつみ、髪は短く刈り上げ、くわえタバコで現れました。めったに笑わぬその細面の頬に、もし刃物傷でもあれば、もう完璧です。
 ソニーが言うには、出国手続きはまず軍に願い出て、許可をもらってからだそうです。我々に問題はあるものの、自分は軍に友達もいるし、お願いすれば、何とかなるかも知れないとのことです。
さっそくソニーが軍へ出向きますが、5/12は日曜日であったため、面会は4時からだと言って帰ってきました。
 「この町は軍事施設が多く、やたらカメラを出してはいけない」と注意して何処かへ行きました。
 我々の許可証には普蘭(プラン)の地名が無いので、この町に居ることも、厳密にいえば違法です。町の中を目立たぬように、散歩するていどで、駐車したランクルからあまり離れる事もなく、息を潜めるようにしておりました。
 その日も相変わらず強い日差しで車中は暑く、おまけに駐車した側の店は、表通りに向けた店頭の大スピ−カーから、店内のアクション物ビデオ音声を、無神経な極限のボリュームで垂れ流しています。車の中で軍との交渉結果を待って、期待と不安の時間を過ごしましたが、車の中での我慢はもう限界です。
 時刻は4時30分過ぎです。軍との交渉を終えたソニーから、何らかの連絡があっても良い時刻です。ソニーは何処へいったのでしょうか。
 ドライバーから居場所を聞き出し、その店に入って見れば、何と見知らぬ地元の人と、マージャンに興じているではありませんか。
 何やってんだこの野郎、と思いましたが、グッとこらえて、ソニーを睨みつけながら、
 「何時お前はアーミイとコンタクトするのか?」と聞けば、ソニーは、
 「After five minutes」平然と答え、ゲームを終局まで続行しました。
 「ポッセブルならプランtoシミコット」で、
 「インポッセブルならリターンでザンムtoコダリ」
 「Do you understand?」
 「Do you understand?」うるせぇ、解ったてば、おんなじこと、何度も言うな。
 交渉とはこちらの意向を相手に理解してもらい、少しでも有利な条件を引き出すものである。相手の話を聞いてそのまま伝えるなど、ガキの使いじゃあるまいし、いったいお前はやる気があるのか?そう言ってやりたいのですが、語学ではとても彼にかないません。
 ソニーは軍の施設へ入って行きました。しばらくすると我々の前に現れて、
 「インポッセブルである」がっかりさせるね、おまけに、
 「ボーダーはクローズドである」だと、なにゆうてんだ。もう彼に任せておくわけにはいきません。
 再度挑戦です。我々三人とネパール・ガイドの二人で、軍の施設、辺検站まで行くと、正門警備の若い歩哨は、怪しい外国人にさも困惑の表情です。
 ソニーが守衛に用向きを告げると、現れた軍人は迷彩模様の戦闘服に戦闘帽、黒の編み上げ半長靴、ぎょろ目で色黒のガッシリした体躯の男で、見るからに兵卒からの叩き上げ、頑固者の雰囲気です。これが判断を下せるトップ人物のようです。
 「我々はジャパニーズのグループ・ツーリストである」
 「ボーダー・スルーのパーミットを望んでいる」
 「イミグレーションのオフィスは何処か、・・・」
 我々の言葉などすべて無視です。もちろん英語など全く通じません。お前らの話に貸す耳などもたぬわ、早く立ち去れい、といった風で、追い払われてしまいました。
 ソニーの話すところによれば、3日前からボーダーは全面的に閉鎖となり外国人は全く通れない。元々このボーダーから出国できるツアーを扱える旅行会社は、ラサの2社のみで、その他の旅行会社では許可が出ない。今はそれらの旅行会社も含めて総て通れない。全面閉鎖は10日間続く・・・云々。
 今さら何ゆうてんだてば、次々に勝手な話ばっかしゃーがって。
 見かねたネパール・ガイドのソナムが、カトマンドゥのMrブルバやラサのMrダシンに電話してみたらと言い出し、向かいの電話局へ飛び込みました。ソニーとソナムが交互にカトマンドゥのMrブルバと話をしたのですが、解決策など出るわけが無く、ラサへ電話を入れたところで、しょせん時間の無駄です。
ここで簡単に諦めるわけにはいきません。
 私は「トモロウ、リトライだ」
 「リトライだてば」。
 ソニーは「インポッセブルだからザンム to コダリである」
 「リターンである」
 「プランでのキャンピィングは許可されていない」
 「キャンプ・サイトならマナサロワールまでバックだ」。
 半日かけて来た道を、戻れだとぉ、私はもう我慢ができません。
 「Mrダシン イズ ミスティク」
 「ウィ アー ウォント プラン to シミコット ルート」
 「ノット ザンム to コダリ ルート」
 「ダシン イズ ミスティク」大声で叫びました。
 ソニーも負けてはいません、
 「アイム ノット エージェンシー」
 「アイム オンリィ ガイド」。
 私の脳内アドレナリン濃度は閾値を突き抜けております。
 「オブコース ユー アー オンリィ ガイド」
 「ガイド イズント マージャン・プレイヤー」
 「ユー キャン ノット プレイ マージャン」
 後はもう日本語です。「この野郎、なめた真似してんじゃねぇぞ・・・」大声で怒鳴り散らすと、少しは気が納まりました。トモロウ、リトライする以外に方法はありません。


(招待所より南方を撮影、by T君)

 その後今日の宿泊場所のことで、もめましたが、外国人の泊まれる宿はここのみと言うことで、結局表通りに面した招待所へ、落ち着きました。この招待所には国境閉鎖で足止めとなった、商人達?もいます。皆ひっそりと待機しているようです。
 プランの町には商売のために長期滞在する周辺国の人もおりますが、想像したより少数でした。彫りの深い顔立ちで、一見してインド系と解るネパール青年と、四角い顔に、一本眉、縮れヒゲ、頭にムスリムの白い帽子をかぶった濃い顔立ちの男は、タジキスタンかキルギスタンと名のったように覚えています。私達と話したのはこの二人だけです。彼らは露店の乾しブドウをただでつまみ食いし、そのずうずうしい態度から長期滞在だとすぐわかります。この地ではお互い同じ異国人、彼らは気安く話しかけてきます。でも腕時計の交換はかたくお断り申しあげます。
 ソニーは20代後半から30歳ほどですが、私より大人です。マージャンしてたことを謝ってきました。私はさも爽やかな振りを気取って「Don't mind」と答えましたが、その作り笑いはちょっと引きつっていたはずです。
 大声を張り上げて怒鳴っても、解決にはならないのです。プランからの国境越えについて、並々ならぬ熱意があることを伝えたいのなら、もっと落ち着いて話すべきでした。
 ソニーはチベット語が母語で、中国語は漢字の読み書きが不充分ですが、会話に不自由はありませんし、英語も流暢です。私はここまでの旅の間、自分の思いを言葉で伝えられないもどかしさが、ストレスとなって溜まっていたのだと思います。
 それにソニーとネパール・ガイドを無意識のうちに比較してしまいがちです。ネパール・ガイドはシェルパです。単なるガイドではありません。彼らは常にお客の側に立ちます。
 「Are you hungry?」我々が困ったようすの時は、 「What do you want?」と声をかけてきます。
 苦労を分かち合う、頼もしい味方。肉体労働を厭わぬ行動・実践の人々です。シェルパとはそのような仕事です。少なくとも、できればそうありたいと考えている人々です。
 ソニーはガイドで、シェルパではありません。肉体労働が不得手なのはあたりまえです。ガイドとは語学力を駆使し、相互の理解を助け、豊富な知識で彼・我の文化の違いからくるトラブルを防ぎ、時にはお客と異なった次元で判断ができる立場です。
 ソニーにテント設営や荷物ボッカを期待するのは筋違いです。彼は頭脳労働が得意なのです。必要があり、チャンスがあれば、きっと仏語でも日語でも習得するでしょう。ガイドはガイド、シェルパはシェルパです。
 ソニーは今夜、軍の友人と会い手を尽くすと言ってくれます。明朝、改めて軍と交渉する約束でお互い了解しました。
 招待所から見えるヒマラヤ白銀の峰々は、折からの夕日で薄紅に輝き、その絶頂からは次々に雲が湧き出し、高速の気流に乗り流れ出るようすが、手に取るように解ります。
 しばし呆けたように見とれていました。見晴らしの良い岩山に登って、思う存分写真を撮りたいのですが残念です。
 その夜、我々三人で話し合いました。ボーダーの閉鎖など次々と我々に不都合な話しが出てくるが、ソニーの話はまんざら嘘ではないようです。彼にすればここで国境を越えてもらった方が、仕事が早く終わって簡単なはずです。ラツェまで引き返す、ザンム〜コダリ、ルートの方はより手間取ります。
 それにしても不明なのは、なぜ最初から旅行許可証のルートがザンム〜コダリになっていたかです。
 とにかく明日は我々も精一杯、納得のゆくまでやります。ラサからここまで来れたのは、HSAやガイドの助けがあったからですが、単にガイドの尻に付いていたから来れたのではありません。最初に我々の強い願望があったから、ここまで来れたのです。簡単に引き下がるわけにはいきません。
 招待所の夜も更けてゆきますが、今日一日の出来事が次々と頭の中を駆け巡り、なかなか寝付けませんでした。

5月13日 プラン→ヒルサ

 早朝、プランの招待所からです。ナンパ、アピ方向を見ていますが、ナンパから北方のリプレク・ラ(峠)方面へ派生する尾根にさえぎられ、ナンパ、アピいずれも見えていないと思います。ナンパから北方へ派生するリプレク・ラの中尼国境尾根上の6,200mピーク(Kacharam)付近が、見えているのでは?中央少し奥に見えている鋭峰は気になりますが。
 明けて5月13日。昨夜の首尾について、ソニーの話は否定的なものでした。ボーダーの閉鎖はどうしようもない事実のようです。ソニーの提案で我々の中から誰か病人を出そうと・・・つまり、もしも病気だったら嬉しいなー、です。
 入り口に辺検站医務室と書いてあります。辺検站と並んで表通りに面した小さな施設です。最初ランクルのドライバー、ソナム(彼もチベッタンで、偶然ネパール・シェルパのソナムと同名です)が医務室へ入りましたが、あっという間に出てきました。
 あたり前です。図体はでかく、サングラスを鼻眼鏡にし、ズボンのチャックはいつも半開き、およそ病気などとは縁の無い、陽気で運転と頑健が取得の男です。
 次は意を決した女房が、ソニーと医務室に入る。今度はうまく行くでしょうか。ソニーに手招きされて、私とT君も医務室に入りました。そこは見かけどおり、ささやかな一室が仕切られて、医局兼薬局と診察室兼ベッド3台の病室になっていました。
 彼女はすでにベッドの上で緊張し、まるで実験動物のように不安そうです。ちょうど何か薬を呑まされるところでした。
その場の医師らしい男が、「・・・Blood pressure・・・Pulse・・・」と言いながら、160、80とメモ用紙に書いて我々に示しました。そうか、血圧と脈拍のことです。どうやら高山病と診断されているようです。
 「ハ、ハ、ハイ、High altitude sickness」一夜漬け、山掛け、英単語学習の成果を発揮するのは、今とばかりに咳き込んで答えました。
 事実ここまでの彼女の体調は、良好と言えるものではありませんでした。ラサ到着の日は唇がチアノーゼを起こし、その後も絶えず下痢に悩まされ続け、カイラスのコルラの時も、残念ながら彼女だけ4,800mで、引き帰さざるを得ない状態でした。直ちに点滴が始まりました。
 今度は片言の日本語が話せる優しそうな軍人が現れ、彼女に、「頭は痛くないか」など、問診の通訳をしています。彼女はしかめ面をしながら、「頭が・お腹が」などと答えています。なかなかの名女優ぶりじゃないかい。今度は酸素吸入が始まりました。
 私達に「いつ頃からこのような症状が出始めたのか?持病はあるか?」と片言の日本語で聞いてきたので、
 「もう2〜3日前からだ。心筋梗塞の持病がある」と答え、
 「彼女は私の妻である」
 「私達は病弱な彼女を大変心配している」
 「カトマンドゥのホスピタルでの治療を望んでいる」
 「昨日カトマンドゥと電話連絡を取った」
 「すでに迎えのサポート隊が国境まで来ている」
 「峠越えは馬に乗せて行くつもりだ」思いつく限りの出まかせを並べます。
 「我々を出国できるようにして欲しい」通じない部分は筆談を交えてです。彼はひらがなも書けます。
 医師と何やら話していましたが、“我々願出国”の文字にうなずいてくれます。ヤッタァ、成功です。嬉しくて、思わずこみ上げてくる笑いを抑えるのに苦労しました。
 「此処に何日間留まることができるか?3〜4日ほど休養が必要だが」。
 肉体と精神を蝕む仕事中毒の過去を悔い改め、今は真っ当なヒッピーに生まれ替わった中年夫婦は、出国できることさえ保証されれば、日数などおかまい無しですが、同行のT君はやがては市長に、などと大それた野心は持っていませんが、曲がり成りにも堅気のCity officerです。できれば当初の日程で帰国したいはずです。
 「1〜2日は留まるつもりである」と返答しました。
 入れ替わりに英語の話せるインテリ然とした2人の若い軍人が現れました。2人とも繊細そうな細面で、1人は金縁メガネ、やぼな戦闘服ではなかったので、将校クラスかも知れません。
 「・・・Pass water・・・?」パス・ウォーターって何のことらっけ。私もT君も意味が解りません。
 「えーと・・・」しばらくして彼らの身振りから、小便のことであると理解できました。
 高山病の場合、積極的に水分を採り、排尿した方が良いのです。逆に排尿が少ない場合は問題があります。最初に飲まされた何種類かの薬にも、利尿剤があったでしょうし、点滴もその目的で す。彼女に排尿の頻度を聞く振りして、
「normal」いや、「but、 a little」と答えました。
 ソニーも早期に出国できるようにと側から話しかけます。ガイドとしての本領発揮、名調子、いいぞソニー。昨日の俺の短気わーれぇかった、かんべんせぇ。
 2人のインテリ軍人は、
 「数日間ここで休養した方が良いのだが、君達の希望を入れて直ぐ出国できるように手続きします」そう言って出て行きました。
 ソニーが言うには、我々さえ良ければ今日にも出国できそうです。彼女もホットしたようすですが、
 「あんたは病人なんだから、もうしばらくおとなしくしてないと」
 「なにオシッコが・・・」どうやら点滴や利尿剤が効いてきたようです。
 その事を医師に告げると、シビンではなくホーローの洗面器を持ってきたぞ、いやはや。私達も席をはずしました。でも今さら洗面器ていどでビビル彼女じゃないけど。
 その後再度の投薬がありました。血圧と脈拍は一時間おきにくらいに測定してくれます。なかなか丁寧な医療です。
 ところで医療費はどうなるのでしょう、共産圏は医療費が無料なのでしょうか?それが我々外国人にも適用されるかも、まさか、中国はそんなに甘くないはずです。
 「How much money of the medical care」いんちき英語は通じません。
 「Medical treatment cost」やっぱだめだね。
 中国経験のあるT君が「確か"多少銭"のはずだが」筆談でただちに理解してもらえました。
 しばらくして、100美元ときた、端が無くて、えらく切の良い数字を出してきましたね。やられたのは、俺達の方かな。でも考えようによっては、我慢できます。受け取った医局の軍人は、手の切れそうな100ドル紙幣を人差し指でピンと弾いて、さも珍しそうにしておりました。我々に医療費のレシートは発行されませんでしたけど。
 医師から高山病であると正式な診断が出て、それを受けて昨日の、ぎょろ目・色黒の軍人が現れ、ソニーと話し合い、軍の出国許可が出たようです。
 その後この地区の公安(警察)の事情聴取がありました。我々の素性やこれまでの通過ルートを聞き、パスポートの顔写真が似ていないと、クレームを付けられましたが、なんとかOKです。
 次にやっと出入国審査官による出国手続きです。1人10元の手数料で、これはレシートを発行してくれました。かたじけなくも“中国辺防検査、05.13、普蘭出”の印影をパスポートに賜りました。
 酸素吸入が終わり医師から許可が出て、礼を述べて辺検站医務室を出たのはもう4時30分過ぎでした。国境のシェラの村を目指して、逃げ去るようにプランの町を後にしました。
 途中カジャの村を過ぎた所に、近年新設されたと思われるチェックポストがあり、2頭大きなシェパードを引き連れた軍人達による検査がありました。プランからシェラの村まで1時間30分の道のりは、自動車道路として、これ以上は考えられない悪路でした。

 それにしてもこの騒動は何だったのでしょうか、昨日のいきさつから、我々の真意が国境を通過しての出国であるのは、プラン辺検站の軍人達にもみえみえのはずですが・・・。
 シェラの中国国境警備隊の施設が自動車道路の終点です。ここの検査では総ての荷物をひっくり返されました。今までトラックに積んでいた荷物も総て降ろし、ここからは徒歩で、人力だけが頼りです。「すでに迎えのサポート隊が国境まで来ている」はずもなく、ネパール側のヒルサまで荷運びに3往復、ソナムとリンジは5往復しました。

マオイストとの遭遇

5月18日 ケルミ→シミコット

 今日も峡谷が続きます。道は岩壁を穿ち、石を積み、築かれています。
 マオイストを名乗る山賊は、ダラポリの村はずれで待ち構えていました。欧州人のトレッカー達から、すれ違うごとに、被害のようすは聞いていましたので、さほど驚きませんでした。
 小銃3丁、リーダーは30歳代なかば、あとの2人は中学生か高校生の年齢です。その他に自称通訳と名乗る男や、見物の村人もいるようで、総勢20人ほど、誰がマオイストなのか判断がつきません。
 外国人ツーリストからは100$/1人、ネパーリー・ガイドからは6,000R/1人を徴収するとのことですが、不愉快極まりない話で、ハイ、ハイと支払いに応ずるわけにはゆきません。
 お前らのやっている事は違法であるのはもちろんで、国際的にも非難される行為であり、思想的背景の如何にかかわらず、銃器で脅し金銭を要求するなど、山賊と同様の行為である。万が一その銃で我々を傷つけることでもあれば、お前達もただでは済まないはずだ。そう言ってやりたのですが、
 「インターナショナル ビッグプロビレン・・・」そんなややっこしいこと、私に言えるわけがありません。しかし、ここは目一杯抵抗しなければ、気が納まりません。
 ソナムは事前に我々に預けてあった12,000Rを支払わせ、我々にも払ってやれと言います。「持ち合わせが無いなら立て替えておくが・・・」そういう問題ではねぇんだってば。
 「支払わなければどうするつもりだ」
 「我々のオフィスまで連行するぞ」
 ソナムによればマオイストのオフィスとはカルナリ河対岸のずっと奥にあるのだそうです。
 「オフィスとはチャンチャラ可笑しい」
 「そんな所へノコノコついて行くより、プランへ引き返した方がまだましだ」ソナムも強情な私に困り果てています。
 「ジャパニーズであるなら、パスポートを見せろ」彼らの魂胆は見え透いています。
 大切なパスポートですから、しっかり掴んで注意していたのですが、一瞬の隙をついて脇からパスポートを強引にひったくられました。
 「パスポートは100$と引き換えだ」得意顔です。
 「このクソガキ供め、きたねぇ真似しやがって、一対一なら簡単に負けねぇーぞ」またアドレナリン濃度が閾値を越えました。
 ガキ供を睨みつけ、小突きあいとなりかけた時、いきなりマオイストのリーダに銃口を突きつけられました。ソナムが割って入り、銃身を掴み下へそらします。今度は女房が騒ぎ始めました。私が これ以上強情を張ると、双方引っ込みがつかなくなります。もう単なるケンカです。
 私が折れました。パスポートと引き換えに支払いに応ずることで、その場は納まりました。T君は100$持っていたのですが。私と女房はドルをほとんど持っていません。
 「One million Japanese yen is equal one hundred dollar」この期に及んでも女は抜け目がありません。
 「Abut same、sameだてぇ」女はしぶといね。
 暑い野外でもう1時間ほどもやり合いましたので、敵も面倒くさかったのでしょう、最後は一万円札を受け取りました。

 彼らが発行した領収書です。並んだ顔写真は左からマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東、ですよね。マオイストだか山賊だか知らねぇけど、お前ら冗談もほどほどにしろよ。
 国家とは何でしょうか。強大な軍事力を背景に、隅々まで統制する強引な体制や、国内で一つの地方に政府の権限が及ばず、他の勢力が支配するなど、島国日本人の国家に対する無邪気な感覚や常識が通用しない地域は多いのです。この旅でそれを目の当たりにしました。
 旅することに困難な問題があるからといって、旅を躊躇する必要はありません。もっといろいろな困難や不思議を経験するべきです。
 多様性の中にも見出される普遍性、自然や人間や文化をどのように理解するか、そのことが自分の行いを律するのです。それが社会のあり方を、未来の文明を、決定するのです。私にとって異郷の文化に触れるのは、考えるきっかけを与え、理解を深めるために重要なことです。
 晴れて天下御免の中年ヒッピーに、もう惜しい物はあまりありません。知的好奇心に任せどこへでも出かける覚悟です。私は未だに自分のことさえ解らないのです。

中央の背を向けたリーダーが領収書を発行、手前に小銃が

 それにしても、納得のいかない請求に対して、ガメツイとも思えるほど、しっかり者の欧州人達が、いとも簡単に、「100$イーチ支払ったよ」と言うのか不思議でなりません。
 我々の後方から、ヤリ村で雇った6人のポーターが来ているはずですが、まだ現れないのは、マオイストのお出迎えを、知ったからでしょう。マオイストも遅れて現れた地元のポーターには請求しませんでしたが。
 写真は女房がT君の影に隠れて撮影しました。白い帽子をかぶり、口の辺りに手をやっているのが、シミコットからチベットに向かうインド人です。彼も執拗に支払いを拒んでいました。それでこそ金銭感覚の鋭いインド人だ、後は任した。インド人がんばれ。

 峠からシミコットの町と飛行場が見えました。細長い土色の禿げは農道ではありません。ずいぶん有難く心強いものに見えました。これで帰れると正直ホットしました。


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