1 名誉市民議案を上程

ケンオードットコム 2016.08.29より  

三条市は29日、9月5日召集の三条市議会9月定例会の議案概要説明会を開き、同市出身のプロレスラー、ジャイアント馬場(本名馬場正平)さん(1933-99)を名誉市民に決定するための議案など14件を説明した。


三条市議会9月定例会の議案概要説明会

「三条市名誉市民の決定について」では、三条市名誉市民としてジャイアント馬場を決めるため、議会の同意を求める。馬場さんの実績は「本市に生を受け、恵まれた身体と真摯で誠実なその性格から精進を重ね、プロレスリングという分野で生涯現役選手として活躍され、三条市民を始め多くの国民に夢と希望を与えた」。
さらにその活躍を記し、「三条市が生んだ政界を代表するプロレスリングの選手として、そして三条市民を始め国民に夢を与え続けた人間として、永遠にその名を残すべく、ここに三条市の名誉市民として最高の栄誉を送るに値するものである」としている。


ジャイアント馬場を名誉市民に決定する議案書

同議案は、先議案件として本会議初日の9月5日に上程し、議会の同意を得て決定した場合。その後、遺族関係者などと日程を調整し、名誉市民の称号の証と純金製の金杯が贈られることになる。

▲ 上 へ  

2 名誉市民議案を議決

ケンオードットコム 2016.09.05より  

三条市議会9月定例会初日の5日、三条市出身のプロレスラー、ジャイアント馬場(本名馬場正平)さん(1933-99)を名誉市民にするための議案が上程され、馬場さんを三条市の名誉市民とすることを決めた。

「三条市名誉市民の決定について」の議案について、国定勇人三条市長が提案理由を説明し、ジャイアント馬場さんを三条市名誉市民として決めるために議会の同意を求めた。採決で原案通りに同意することを決定し、ジャイアント馬場さんが、諸橋轍次氏、岩田正巳氏、渡辺義雄氏、小林ハル氏、鶴巻三郎氏に続き、6人目の三条市名誉市民となった。


9月定例会初日

提案理由について国定勇人市長は、ジャイアント馬場さんは世界プロレス界のトップ選手、日本のプロレス界のリーダーとして活躍し、多くの国民に敬愛され、「馬場さんが国民に与えた感動や輝かしい戦歴は決して忘れられない」とし、「その事跡は極めて顕著であり、三条市名誉市民という最高の栄誉を送ることを提案する」と述べ、全市議が同意した。

▲ 上 へ  

3 三条市長のブログより@

三条市長ブログより  

2016年09月05日

名誉市民ジャイアント馬場さん、誕生。

本日の三条市議会において、ジャイアント馬場さんが三条市の名誉市民となることが全会一致で決せられました。

ジャイアント馬場さんの生前の歩み、功績について改めて解説することが憚られるほど、その名前は、三条市民はもちろんのこと、日本国民に、そして国内外のプロレスファン全てに轟いております。

ジャイアント馬場さんが亡くなられてから17年…

昨年には十七回忌を終えているこのタイミングでの名誉市民決定に対して、様々な声があるかもしれません。

でも、今年春以来、ジャイアント馬場さんをこよなく愛するファン有志の皆さんが署名活動を始めてから僅か半年にして1万筆を上回るという事実を私たちは真摯に受け止めなければなりません。

没後18年を経過しても、これだけの数の市民、ファンの熱き声がある。

この事実ほど、ジャイアント馬場さんの功績の大きさを表すものはありません。

私ども三条市としても、今回の名誉市民決定を受け、ジャイアント馬場さんの生前の功績を次世代に伝えていくための検討を具体的に進めていかなければなりません。

それが、ジャイアント馬場さんに名誉市民を授ける原動力そのものとなった市民の皆様、ファンの皆様に対する最高のご恩返しであることを信じて…

先日、新潟日報の日報抄で、“「昭和が終わった」。その時代を彩った著名人の死を悼んで、そんな言葉が使われるようになって久しい。最近では、草創期から放送界を支えた大橋巨泉さんらの訃報が続き、女優の中村メイコさんが「これで本当に昭和が終わった」と嘆じていた。1999年、61歳で逝ったこの人の死も、昭和の終焉(しゅうえん)を強く印象づけたのではなかったか。プロレスラーのジャイアント馬場さんを名誉市民に推す議案が5日、出身地の三条市議会に提案される。市民団体が半年ほどかけて集めた約1万人分の署名が市を動かした。挫折を乗り越え、不屈の闘志で大輪を咲かせた。高校を中退してプロ野球巨人に入団。2年目には2軍ながらシーズン2桁勝利をマークし頭角を現す。が、病やけがが重なり、投手を断念。舞台をマウンドからリングへと転じ、どん底からはい上がった。生涯現役を通した。つらいときには、歯を食いしばって闘う自分の姿をよりどころにしてほしい−体力の衰えた晩年に語っている。馬場さんのそんな思いに、ファンも「リングに立ってくれるだけでいい」と惜しみない声援で応えた。国内通算5758試合。「氏の活躍は、昭和40年代から高度経済成長とともに世界の一流国の仲間入りを果たす日本の姿と照らし合わされ」「国民に夢と希望を与え続けた」。市議会に提案される議案に付された事績は、そうたたえる。どれほど昭和が遠くなろうと、その名を決して忘れない。署名に込められた市民の思いがかなうことを祈る”と触れていただきましたが、同様のコラム欄(!?)でも、日本経済新聞の春秋欄では相前後して“マスコミでは、亡くなって久しい作家などに敬称はつけない。歴史的人物の枠に入るわけである。どれくらい過ぎたら「さん」が取れるか微妙だが、せいぜい十数年だろう”との記載がありました。

これは、私だけかもしれませんが、敬称を付けないのは、こうした歴史的人物に加え、自分たちは遠く及ばない英雄的人物にも当てはまるのではないかと内心思っております。しかも、このカテゴリーは現役であっても当てはまるのではないかと思うのです。

例えば、プロ野球で言えば、子どものときから“王っ!王っ!”って叫んでましたけれども、それは心底尊敬の念を持ってのことでしたから…

実は、私にとって、ジャイアント馬場さんも同様です。

私個人にとっては、尊敬の念を込めて、馬場っ!、ジャイアント馬場っ!なのです…

立場柄、これまで同様、今後とも敬称を付けていきますが、本当は心では叫びたいっ!

“馬場っ!名誉市民になったよ!やっぱり凄い人だったんだねっ!”ってね!

▲ 上 へ  

4 馬場正平の高校生活

馬場正平(ばば しょうへい)

1953年(昭和28年)、三条実業高校機械科入学。当時の身長は190cm。
中学校から本格的に野球を始めていたので当然、野球部を希望していたが、31cmにもなっていた足に合う既製のスパイクがなかった。そのため当初は硬式野球部入部を断念し、一旦、美術部に入部した。その後、野球部から特注のスパイクを与えられることとなり、1年生の秋に念願の硬式野球部に入部。エース・ピッチャーとしての活躍はめざましく練習試合ながらも18奪三振を記録するなどし、1954年(昭和29年)、高校2年のときには新潟日報で「巨漢馬場投手を擁する三条実業高校」と報じられ優勝候補の一角と目される存在になっていたが、予選で敢え無く敗退し甲子園出場は叶わなかった。
この頃、トンボユニオンズのプロテストを受ける話が進んでいたが、同年10月に読売巨人軍のスカウトに誘われ、高校を中退し、翌1955年(昭和30年)1月に読売巨人軍に投手として入団する。背番号は59。(本文はwikipediaに加筆・修正した。)


写真は、三条実業高校機械科2年2組。クリックで拡大されます。

1954年(昭和29年)10月、馬場正平が読売巨人軍に入団が決まり退学前の学級記念写真。
写真中央の担任・石黒清先生の右となりが馬場正平。
体の大きいことが目立たないように体を縮めて写っている。
全身も大きいが特に足と手の大きさが良くわかる。

同級生の思い出

三条実業高校 昭和31年卒 笠原秀作さん

「体が大きかったから目立ったけど、とにかく控えめな人間だったですね。おとなしかった。大きな声を張り上げたり、ケンカをしたりとか、そういうことは全くなかったですね。イジメというのではなくても、そんな馬場を少しからかったことはあるでしょうね。何を言っても、絶対に怒ったり、反撃することはなかった。」

関東支部(現・東京支部)会報創刊号に寄稿

1991年(平成3年)3月1日に発行された創刊号に馬場正平(ジャイアント馬場)が「お祝いの言葉」と写真を寄稿した。

お祝いの言葉

関東支部ができたと聞き、本当に喜んでおります。同窓生の皆さまにはいろいろとご声援を頂きながら、ご無沙汰をいたしており申し訳なく思っております。皆さま方には様々な分野にご活躍のことと聞き、私の人生に大きな励みになっております。これからも郷里、同窓を大切にし誇りに思い、今後も一層精進して参りたいと思います。

全日本プロレス馬場正平(ジャイアント馬場)

1999年、開催を予定していた支部の10周年記念総会に出席を約束された後に入院されたと報道され、お見舞い日程を調整しているところに1月31日に逝去との訃報が届いた。

母校が甲子園に出場

2008年(平成20年)、母校が甲子園に初出場を決めたときにお姉さんから寄付が届いた。

▲ 上 へ  

5 三条市長のブログA

三条市長ブログより  

2016年11月07日

何とか、大役を果たす…

随分と時間が経過してしまいましたが、先月、ジャイアント馬場さんの奥様、元子夫人をお招きし、名誉市民の贈呈式を執り行わせていただきました(関連記事はこちら)。

贈呈式の開始から懇談終了までの時間はわずか30分余り…

ですが、私には、優に2時間は経過したのではないかと思えるくらいに、気の張り詰めた時間となりました。

何せ、1万人を軽く超す市民、ファンの皆様の気持ちを背負っての面談なのですから…

そして、スーパーヒーロー、ジャイアント馬場さんの名誉にも関わることなのですから…

そんな中、元子夫人の“馬場さんもきっと喜んでいられると思います”の一言に、どれだけ救われた想いがしたことか…

でも、救われる想いを噛み締めているだけではいけませんっ!

これから、ジャイアント馬場さんの功績をいかに次世代にしっかりと引き継いでいけるか…

それが我々のこれから果たさなければならない務めでありますっ!

皆様方のご協力を引き続きお願い申し上げますっ!

ところで…

同日、栄体育館におきまして、人生初のプロレス生観戦を致しました。

流石に、迫力がありますなぁ…

でも、それを遠目に温かく見守っておられた元子夫人の優しい眼差しも忘れることができません…