先生のケルン


斎藤 勲

 私の高校時代に山岳部の顧問をされ、幾多の教えを受けた先生が八十八歳で他界された。九ヶ月が過ぎた頃、山岳部の二年後輩で今は 福島県阿武隈の住人の五郎からメールが来た。
 祥月である七月中に先生が好きだった剱岳が良く見え、夏には花に囲まれる場所にケルンを積んで先生の追悼をしたいとの事だった。
 先生が亡くなられた時、彼は一人で太郎平から雲ノ平、黒岳、鷲羽岳、三俣蓮華岳、黒部五郎岳と周回する縦走をしていた。折立に下山してから携帯電話の電源を入れ、はじめて訃報を知った。亡くなられて三日後のことだった。山から帰宅した翌日、福島県中通りの東端から新潟県中央部の先生宅をトンボ帰りして仏前に焼香をした。
 携帯電話の電波が通らない所にいて訃報を受け取れないのは不可抗力で仕方がないことなのだが、先生と同様に山スキーの名手であり、その気働きを先生に愛されていた純真な彼は違った。通夜にも告別式にも出席出来ず、今生のお別れができなかったことを一人で激しく悔いていた。
 頼りない先輩であり、最近は体調も優れない私だが、折角の五郎の心底からの申し出を断るほど冷淡ではない。七月の良く晴れた週末を選んで室堂へ向かうことにした。別山周辺の適切な場所を選んで小さなケルンを積んで追悼しようと相談していた。

 身体を動かすのが好きな先生であった。バスケットボールや山岳部の顧問を務め、山スキーや渓流釣りに熱中し、休み時間にはテニスに興じていた。年中、校内の誰よりも陽に焼けた黒い顔をしていた。鍛えられた肉体には贅肉がなかった。説得力のある考え方や不言実行の行動力に、一度接点を持った人はみな影響を受けた。
 先生は五十六歳で早期退職された。健康に自信があり過ぎの不養生で脳梗塞を発症してしまった。しかし、そこからが他の人と違った。リハビリに励むかたわら俳句を作り、川釣り、尾瀬などへのハイキング、自分史の発刊など一生懸命に生きられた。今考えれば周囲の人々や教え子たちに自分の背中で発症後の自分の生き方を教えてきた感があった。

 まだ本格的な夏山シーズンには少し早く、室堂行きの乗り物は空いていた。バスターミナルから少し歩き地獄谷の噴煙が風に乗って漂ってくる辺りに投宿し、明朝からの登山に備える。
 五郎との山行は三十五年振りだ。一九八〇年の暮れから二週間、ネパールでトレッキングをして以来のことである。
 翌朝、夜明け前の四時に宿を発つ。雷鳥坂の登りはいつ登っても辛い。
 最近体調の良くない私は極めてゆっくりと休まずに登り続けた。別山乗越へ登る途中で夜が明けた。
 晴天の山の夜明けはいつも清々しい。別山乗越に着き、ひと時景色を楽しむ。目の前に大きな岩襖の剱岳、左は大日連峰、右は後立山連峰。周りを山に囲まれている幸せを噛みしめる。そして剱岳はいつ見ても登攀意欲をくすぐる。もう若くない私は昔のように八ッ峰の岩峰や長次郎谷の雪渓を軽やかに登ることは出来ない。遠い昔の登攀を頭に描き懐かしむだけだ。
 剱岳は先生が「惚れた山」である。先生が若くて元気だった頃は、ある時は高校山岳部の生徒、またある時は所属していた社会人山岳会の仲間を引き連れて長次郎谷雪渓や他の様々なルートから頂上に立った。「剱の歌」の替え歌の歌詞も自分で作られた。

「長次郎谷つめれば 剱の上に息を切らしてもう一歩」

 私も若い頃は少しハードな山行に熱中していて甘美な山の時間を過ごした。その原点は、高校時代に先生と一緒に這松の茂みに潜って泊まりつつ見上げた飯豊山中の星空や、あちこちの山で焚火をしながら夜遅くまでさまざまな教えを受けたロマンあふれる世界にあったのだと今にして思う。
 別山にはそこから四十分の登りで着いた。別山頂上の祠の周りには数人が休んでいた。
 人通りが少なく花が咲いている場所を求め別山北峰の方へ歩いてみる。しばらく行くと、ハクサンイチゲ、チングルマに囲まれ、道から東に数メートル離れた場所が好ましく見えた。剱岳も目の前である。

 手頃な岩を集め高さ三十センチほどのケルンを五郎と二人で積む。小さなケルンはすぐにできた。ザックから先生の好きだったカップ入りの麦焼酎を取り出す。ケルンにかけたあと、少し残しておいて二人で献杯しようと言っていたのだが、五郎は残らずケルンにかけてしまった。ワンカップの底に残った一滴ずつを手のひらに振って、二人してなめて献杯とした。
 愛飲していた焼酎をケルンにたっぷりとかけられ、空から見ている先生は喜んだことだろう。「よく来たな。たっぷり注いでくれてありがとう」と声がしたようだった。しばし合掌、今まで陰に陽に導いて貰った感謝の念が込み上げてきた。西の空には剱岳が追悼の様子を見守ってくれていた。
 大事なセレモニーを終えて、ここからは真砂岳、富士ノ折立、大汝山、雄山を越え室堂に戻る予定である。標高が上がってきて登りが堪える。

 私はある時期に五年間、毎秋ネパールへ通った。当時はそれなりに高所に適した体質になったようだったが、あれから六年、今はごく普通の老人が息を切らして、片手に握ったストックに頼りつつ坂をよろよろと登っている。
 富士ノ折立から別山方面を見ると我々がケルンを積んだ場所が良く見えた。七キロ離れていてケルンそのものは特定出来ないが、先生のケルンのあたりに最後のお別れをする。イワギキョウがあちこちに咲いていて、白い花崗岩に紫の花々の色合いが美しい。

 雄山からの下山は大混雑だ。ヘルメットをかぶった小学生を連れた家族連れが多い。足場が悪く大人自身の身の確保が大変で子供まで目が行き届かない様子だ。「立山参り」の風習が現代にもまだ続いているようにも見受けられる。ルートはどこでも取れるがどこも足場が不安定だ。行く手を良く見定め、混雑を回避しながら、ようやく一の越から室堂平に降り立った。
 膝や、以前に捻挫した足首をかばいつつ着いた室堂平は、チングルマ、ハクサンイチゲ、イワイチョウ、ミヤマキンバイなど夏の花々の真っ盛りだった。花の楽園の石畳道を歩きつつ五郎に言われた。今回の山行で感じたことを短歌などで表現し、先生への供養にしたらどうかと。その時以来、思いを熟成させて歌を詠んでみた。幸いにも「山と渓谷二月号」に入選掲載され、今回の追悼山行の集大成となる歌となった。

 ケルン積み恩師を偲ぶ夏空に岩と雪なる剱岳雄々しき

 不肖の教え子の私が先生の側にゆくのは、先生の亡くなられた齢まで生きられたとして十九年先だ。彼岸に着いたら、焼酎のお湯割りを二人で飲みながら、山の話や俳句談義に花を咲かせたいものだ。それまでは私の随分先の高みを登っておられる先生の背中を見つめながら、この娑婆でもう一頑張りだ。



寸評(選者;遠藤甲太氏)

 山の世界を教えてくれた高校の先生を偲んで、亡き師の愛した剱岳を望む頂稜にケルンを積むべく、旧友と登った折の紀行。作者の旧懐をはらんで、うつりゆく風景が過不足なく文字に染まり、せつなく、うつくしい佳編となった。海外登山やヴァリエーションルートを含め山歴豊富な斎藤氏も、すでに六十九歳、肉体のおとろえを自覚する身である。しかしなお、積んだ石を前に和歌を吟ずるゆとりはあった。じつはこの歌、本誌本年二月号載っており、それを本稿でも録している。重複だけど、この歌稿をカットするわけにはゆきません。恩師に合掌------。


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