金子 達ワールド


元顧問 金子 達

私の登山

  私は運動神経が凄く鈍く、中学の時、両手足の右の1拍遅れで、左を動かすというのがうまくできずに苦闘したことがあるから、ピアニストが右手と左手で別の動作をするのを見て、凄ましいと思った。
 だから球技は苦手だった。小・中学の時、町内対抗の野球大会があった。私が打席に立つと、まるで打てないことを知っているので、応援席から「かぶされー」「エビになれー」と声がかかる。ベース上にかぶさるように打席に立たれてば、小・中学生のピッチャーはビビッてうまく投げられないから、作戦成功で、四死球で出塁率は100%だ。○○は凄いぞ、打率5割だぞ。なんて声を聞くと、俺の方がもっと凄いのに、どうしてほめてくれないんだろう、と思った。打率の計算方法を知らなかったのだ。
 登山は他人の何倍も時間がかかっても頑張って、登り続けていれば、やがては頂上に立つことができる。登山は私に合っていると思った。達成感が嬉しい。
 年齢とともに責任の重い困難な仕事に直面するようになり、私は胃を痛めた。ところが山へ行くと、気分が良くなるのだ。森林浴の効果なんだろう。
 私が長いこと山登りをやっていたことを知っている人から、「もう百名山は全部登ったんでしょうね」と言われることがあるけど、私の場合は、新潟県とその隣接県の山ばかりだ。
 同じ山へも何回も登っている。同じ山でもコースを変え、季節を変えて、また年月をへだてて登ると、また新しい発見があり、ドキドキ感がある。
 弥彦山でも、雪のあるシーズンに登ると、2000m級の山に登っているような感じがする。
 同じ山へ、同じ季節に登る場合も、あの花に逢えるだろうか、という期待をもって登る。
 あの角を曲がったらどんな景色が待っているのか、もう少し登ったら、どんな光景に出逢えるかというドキドキ、ワクワク感がたまらない。

 

8000メートル峰をこの目で

 私の部屋に松井弘正君が撮ったエベレストの写真が飾ってある。写真で見る高峰もいいけど、いつの日か直接この目で8000メートルの高峰を見てみたいものだとズ〜ッと思っていた。
 そのチャンスがやってきたのは2009年3月のことだった。ネパールを訪ねるトレッキングを含むツアーに参加したのである。
 8000メートルの高峰がはっきり見えたのは、ツアーの4日目にポカラからジョムソンへ飛ぶプロペラ機の中からで、右手にアンナプルナ、左手にダウラギリが見えた。白雪に輝くその高峰は神々しかった。
 ツアーの6日目にカリ・ガンダキ川の上流にあるカクベニまでトレッキングに行く時、ふり返ると、ダウラギリが良く見え、夢中になって、シャッターを何回も押した。

 ツアーの8日目にエベレスト遊覧飛行があった。添乗員が11時の角度に見えるのが×××です・・・などと説明してくれたんだけど、私は写真を撮るのが忙しくて、説明なんか聞いていなかった。
 飛行機の窓はキズだらけで、汚れていたし、ボ〜ッとした天候だったこと、それに、それほど山へは近づかなかったこともあって、あまりいい写真は撮れなかった。
 ツアーの8日目、カトマンドゥからシンガポールへ飛ぶ飛行機が離陸して、水平飛行に入る前、左側に高峰が見えて来た。この時は飛行機がかなり山に近づいたので、かなりはっきりと、しかもかなり長いこと見えていたのに、私の席は右側で、まだ、ベルト着用のサインが出ている時だった。ア〜ァ。でも、永年の思いが叶って、満足感でいっぱいだった。

 

70歳のロープウエー登山

 高い山の見えない所へ引っ越して来て5年になる。時々、雲が白雪をいただく高い山に見えることがあって、ドキッとすることがある。
 冬だと、JR佐倉駅まで行く途中で、富士山が見えることがある。そんな日はチョッピリ儲けた気になる。
 引っ越して来た時は、まだ2000メートル級の山へ登るつもりで、革の登山靴もキャラバンシューズも持って来たのであるが、昨年、靴棚を探してみたけど見当たらなかった。ヤラレタ!! 家内がこっそりゴミとして捨ててしまったらしい。
 まあ、体力も衰えてきたから、2000メートル級はおろか1000メートル級の登山も危ないなあと思うようになった。それで、ロープウエーを利用する登山となったのだ。
 その初めは、2010年7月4日の箱根ロープウエーだ。梅雨のさなかでもあり、霧でお目当ての富士山はチョッピリとも見えなかった。
 次は10月2日の那須茶臼岳である。これは所属する写真グループの撮影旅行で行ったのだ。ロープウエーを降りた地点が1700メートル位だから、久し振りに高い山へ来た感じになった。這松の間のザラ場を登ると、登山の高揚感がよみがえって来た。ようやく色づき始めた木々が私を歓迎してくれているようだった。

 

三工の山用語

 ある集団の中だけで通用する言葉がある。「隠語」である。

 メタアルデヒドで作られている固形燃料のことを「メタ」という。歩(ぼっ)荷(か)の人が、手にした杖を荷物の下に入れて休憩することから、休憩することを「一本立てる」という、といったことは山仲間の隠語である。

 三工の山岳部だけで通用していた言葉がある。「きじんと」がそれだ。

 きじをうつ時、草むらにしゃがんで、きじが草むらから飛び立つのをねらうのだという。そのきじをうつ時のかっこうが和式トイレで をする時のかっこうに似ているので、 をしにいくことを、「きじをうちに行く」という。
 かりんとはその形といい、色といい、 に似ているので、まだ三条工業が生まれたばかりの二回生、三回生の頃に、かりんとをきじんと呼ぶようになった。
 だけど、あまり品のいい名前じゃないし、美味しさも半減しそうなネーミングだから、もううけつがれていないかもね。

 それからもう一つ、「タンペ タンペ」である。これは高橋小一郎先生の口癖だから、三条地方の方言なのかもしれないが、他の人が使っているのを聞いたことがない。「へたへたする」「こなごなする」といった言葉と同じように、疲れた状態を表現するんだけど、「タンペ タンペ」という語感が日本語でないような奇妙な感じで、印象に残っている。

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