追悼短歌で思い出す高橋先生との剱岳合宿


S46年卒 吉田 光二

 私が高橋先生から剱岳の合宿に同行を求められたのは1976年(昭和51)8月の合宿と記憶しています。
 「部員の希望で剱に行こうと思うが顧問の人員が足りない。一緒に行ってくれないか。」とのお誘いでした。
 その頃の私には、剱岳は「山と渓谷」か「岳人」の写真の世界でのものでしたから、二つ返事に同行させてもらいました。

 交通費を浮かせるために夜行列車で糸魚川に行き、駅前で始発までごろ寝。富山地鉄で立山駅に向かい、大日岳登山口へ。
  登山口の道路でテント泊をして翌日は大日岳を経て剱沢入り。高原バスが走る様やエンジン音を聞きながらの剱沢までのアプローチは、疲労度をいっそう増したように記憶しています。
  この年の剱沢は残雪が多く、ポールの足元にグリーンピースの缶を履かせて雪渓上に家形の夏山テントを建てました。一泊目から「メッコ飯」を炊いていた現役部員は、標高が高く水温も低い剱沢では当然のごとく、またメッコ飯。
  高橋先生と私は雪上で寝るのを嫌って這松の下に潜り込んで寝ました。

 剱アタックの初日は一般ルートの別山尾根から頂上へ。下りは別山尾根を使っての下山。翌日は長次郎雪渓から頂上アタック。ピッケルを持つ3年生が1・2年生の間に入りキックステップで登って行きます。
  他のパーティはヘルメットにアイゼン、ピッケル、ザイルを持っての完全装備。我が部は、部員はマナスルキャップ、私はタオルの鉢巻と、まったく場違いの様相でした。
  この、二度目の頂上からの下山では、1・2年生は再び別山尾根を使い、ピッケルを持っている3年生と私、高橋先生は平蔵谷雪渓をグリセードで滑り降りました。
  剱の3日目は剱沢BCを撤収して剱沢を下り、二股で1・2年生は今日の天場の仙人池に向かい、高橋先生、私、3年生は三の窓を目指します。例のごとく無防備のまま三の窓雪渓を登り、三の窓でザイルを取り出して2パーティに分かれてジャンダルムにアタックです。ゼルプストバンドも無く、ザイルをブーリン結びで体に直まきです。
  ジャンダルムの登坂終了点に立ったかと思うと猛烈な雷と大粒の雹の来襲です。すぐ下山に入り、雪渓を下ります。両側の岩場にはいく筋もの滝が現れ、ゴロンゴロンと落石がきます。雪渓の上は端から三分の一の所が安全といわれていますが、とてもじゃありません。真ん中を歩いて落石を避けました。
  二股まで下りるとデポしておいたキスリングを背負って仙人池までの登りが待っていました。雨中、びしょ濡れになりながらの、ただひたすらの登りでした。もうすぐというところでコールするとコールが返ってきました。靴も脱がずにテントの入り口を開けたら、同行顧問からホットウイスキーにレモンを入れた食器が手渡され、冷え切った体を一気に温めてくれました。
  高橋先生は濡れてしまったタバコをラジュースの火で乾かして吸っていましたがそれも品切れ。今日は最後の晩ということで、残った米を持って仙人ヒュッテに交渉に行かれた高橋先生は、「これ1つらっとぉ」とセブンスター1個を持って帰ってこられました。
  合宿最終日はまた暑い日でした。阿曽原まで下り、水平道を歩きます。この時代はキスリングですから気が抜けません。タンペタンぺを何回も繰り返してようやく欅平に到着。
  私は駅のトイレの鏡を見たとたんにビックリ仰天。顔が真っ黒なのはともかく、火脹れだらけではないですか! これでは娑婆に帰れません。痛いのを我慢しながら火脹れを破り、顔の皮むき。むいた後は風にあたるとピリピリと痛くてたまりません。万能薬のメンソーレタムを顔中に塗りたくりました。対して、高橋先生の顔はたいしたことがありませんでした。もともと皮の厚さが違っていたのでしょうか。
  欅平から先は記憶がありません。
  かくして私の剱岳初登山は強烈な思い出を残して終わりました。
  高橋先生は日本の山の中で最も剱岳を愛され、剱岳が見えると興奮されていたように思います。私もまだまだ強烈に記憶が残っているほどの剱岳の合宿でした。

 その後、私が顧問になってから、剱岳から水平道を通っての合宿は2回行いましたが、いずれも室堂から入り、別山尾根を往復のアタックでした。
  昨今、高校山岳部が剱岳の雪渓登りや水平道を合宿に使っているところはありません。

ケルン積み恩師を偲ぶ夏空に岩と雪なる剱岳雄々しき

 41年前のことになりますが、高橋先生との剱岳合宿が懐かしく思い出されます。

平成29年(2017年)2月21日


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